チュニジアの世界遺産「カルタゴ遺跡」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(2),(3),(6)
登録年1979年

チュニジアの首都チュニスの郊外には、地中海一体を支配した都市カルタゴの遺跡が残ります。紀元前9世紀頃に建設され、紀元前6世紀以降は地中海を支配する交易都市として発展しました。しかし、紀元前2世紀にローマに滅ぼされると、何度か復興するも7世紀には完全に放棄。

ここでは、カルタゴ遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、カルタゴ遺跡について詳しくなること間違なし!

目次

カルタゴ遺跡とは?

画像素材:shutterstock

現在のレバノンを本拠地としていたフェニキア人は、地中海各地を拠点とするために植民都市を築いており、カルタゴもその一つ。町は紀元前9世紀頃に現在のチュニジア北部に作られ、チュニス湾に面した丘の上にあり、伝説ではティルスの女王ディードーが建設した都市とされています。紀元前6世紀になると、カルタゴがフェニキア人諸都市の中心地となり、西地中海全体の交易を支配するように。そして、「世界の覇者」とまで言われるまでになるほど繁栄しました。

しかし、徐々にイタリア半島で勃興してきたローマと当時の穀倉地帯であるシチリア島を巡り、1世紀に渡るポエニ戦争が勃発。第二次ポエニ戦争では将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島まで進軍したものの、最終的に大敗。紀元前2世紀に町は徹底的に破壊されました。

ローマ時代になるとアフリカ属州となり、廃墟の上に都市が再建されました。その後、ヴァンダル族が王国の首都としたり、東ローマ帝国に征服されたりと、最後はイスラム勢力により町は陥落。それ以降は完全に放棄されました。

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カルタゴは、フェニキア人、ローマ、キリスト教、イスラム教など、さまざまな勢力によって支配され、地中海世界の交流が盛んな町でした。

遺跡は、フェニキア人が住んでいた時代から町が破壊されるアラブ時代まで、各時代の遺物が残ります。カルタゴの発祥とされるビュルサの丘の上には、高層邸宅の跡も発見。当時としては、かなり高い建築技術を持っていたとされています。

他にも、ローマでも3番目の規模を誇ったアントニウスの浴場を始め、キリスト教が布教した後に築かれたバシリカなども残存。さらに、初期の住宅街とされるマゴン地区は、防御壁なども見られるという点も特徴です。

カルタゴ遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

画像素材:shutterstock

カルタゴ遺跡が評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
カルタゴでは、芸術や建築など、10世紀以上にわたって交易や文化交流の中心地であったという点。

登録基準(iii)
カルタゴ遺跡は、地中海全体を支配し、都市国家として活躍したカルタゴの存在を示しているということ。

登録基準(vi)
カルタゴは優秀な人材であるハンニバル・バルカや、アフリカ中部までたどり着いた探検家ハノンなど、多くの著名人を輩出しているという点。

世界遺産マニアの結論と感想

「世界の覇者」とまでなるほどに、西地中海世界を制覇したカルタゴは、歴史に名を残すハンニバル・バルカなど、優秀な人材を多く輩出する都市国家でした。現在は遺跡しか残っていませんが、ここには10世紀以上に渡って交易や文化、宗教などが発展した都市の跡が残っています。

ちなみに、ハンニバル・バルカは「アルプス越え」など、当時のローマの人々に恐怖を与え続けた将軍でした。あまりにも怖かったのか、今でも子供がいたずらをすると「ハンニバルが連れて行ってしまうよ!」と親が叱るほどの存在。まるで鬼のような扱いですが、カルタゴは滅んでもハンニバルの存在は2200年以上経ってもイタリア人の心に残り続けているのです。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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