ロシアの世界遺産「デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(3),(4)
登録年2003年

ロシアの南部、カスピ海の西岸に位置するデルベントは、現在のイランに存在していたササン朝ペルシアの北の国境であったために、5〜6世紀にかけて要塞都市が建造されました。街は二重の城壁で囲まれていて、長らく大国の戦略的拠点となり、イスラムやキリスト教の建築物などが点在し、街には今でもさまざまな文化が見られます。

ここではデルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、デルベントの建築物群について詳しくなること間違いなし!

目次

デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群とは?

デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群
画像素材:shutterstock

ダゲスタン共和国は、ロシア連邦を構成する共和国の一つ。共和国の南部に位置するデルベントはカスピ海の西海岸、アゼルバイジャンとの国境近くにある都市。ここはロシアで最も古い都市の一つとされ、紀元前8世紀から人が住み始めたとされています。5〜6世紀に当時のイランを支配していたササン朝ペルシャによって統治され、ヨーロッパと中東の交易路の中継地ともなった要塞都市となりました。

デルベントには、5世紀に建造された二重の城壁が残存。2つの城壁はそれぞれ300mから400m離れて建造されていて、これは港から高台にある要塞まで合計で約3.6kmにも伸びる広大な城壁でした。高さは約12mで厚さは最大3.8mと堅固な城壁は、当時北方に勢力を保っていたハザール・カガン国などの遊牧民族の侵入を防ぐために建設されたもの。

デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群
画像素材:shutterstock

やがてイスラム勢力によって征服されると、9世紀にはカフカス地方で最大都市となるほどに。城壁内には、宮殿や浴場、地下貯水池、5世紀建造のキリスト教会、8世紀建造のモスク、19世紀建造のアルメニア正教の教会と、多くの考古学遺跡や歴史的建造物が残っています。そして、山頂にある要塞は高さ10〜15mもの巨大な石垣で囲まれたもので、保存状態も良好。

19世紀以降はロシア帝国の一部となり、街にはアラブからモンゴル、ペルシャ(イラン)など、さまざまな大国によって支配された跡が市街地に多く残る都市となりました。

デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

デルベントのシタデル、古代都市、要塞建築物群
画像素材:shutterstock

デルベントの建築物群が評価されたのが、以下の点。

登録基準(iii)
デルベントの古代都市は、古くからカスピ海西岸の南北の航路を支配するためには重要な都市で、5世紀のササン朝ペルシャによって築かれた防衛システムは15世紀にも渡って使用されてきたということ。

登録基準(iv)
デルベントの要塞建築は、ササン朝ペルシャの国境地帯を防衛するための戦略的に重要な建造物で、19世紀にロシアに占領されるまでずっと維持されてきたという点。

世界遺産マニアの結論と感想

現在のロシアの最南部に位置するデルベントは、古代から国境の地であって、ここは交易においても重要な場所であったことから、要塞や城壁が建造され、支配者が変わっても19世紀まで現役でずっと維持されてきたという点で評価されています。

ちなみに、この地には「アレクサンドロス大王の門」と呼ばれる、大王が北方の民族からこの地を守るために築いたという伝説の門があったとされる場所。しかし、これは中世に流行した伝記がルーツとされ、おそらく物語から派生したフィクションだと考えられています。

実際にマケドニア軍はここを通ったという記録はないですが、デルベントの要塞は、まさにアレクサンドロス大王が作ったと思わせるくらい立派なものだと考えられていたのでしょう。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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