登録区分(暫定リストに記載) | 文化遺産 |
登録基準(暫定リストに記載) | (2), (3), (5) |
申請年(暫定リストに記載) | 2014年 |
トルコ北西部に位置する小さな町イズニクは、かつて「ニカイア」と呼ばれ、マケドニア、ローマ、ビザンツ、イスラム時代に中心都市であり、ルーム・セルジューク朝やニカイア帝国の首都として栄えた場所。オスマン帝国に支配されると陶器の産地となり、ここで生産されたイズニク製のタイルは美しいことで有名で、今でもイスタンブールの宮廷やモスクで見られます。
ここではイズニク:文明間の移行の痕跡がなぜ世界遺産候補なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、イズニクについて詳しくなること間違いなし!
イズニク(ニカイア):文明間の移行の痕跡とは?
アナトリア半島北西部のブルサ県に位置していて、イズニク湖という細長い湖の東岸に位置するのがイズニク。周囲には塚などが発見されていて、先史時代から人が暮らしていました。街は紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の将軍アンティゴノス(紀元前382年〜紀元前301年)によって設立。後に同じく将軍であったリュシマコスが支配すると、彼の妻の名前にちなんでニカイアと名付けられました。当時は4つの門と2本の大きな通りが中心で交差する長方形の都市として設計されたもの。
現在残る城壁は、3世紀のローマ時代にゴート族の襲撃に向けて築かれたもので、東西南北に門も加えられました。南西部には劇場が建造され、現在も残っています。323年にローマ帝国がキリスト教が公認されると、ここはこの地方の中心となり、325年に第1回ニカイア公会議が行われました。現在も中心部に残るアヤ・ソフィアには、3世紀に建造されたものの、11世紀に地震で破壊。
11世紀になると、イスラム王朝のルーム・セルジューク朝(1077〜1308年)がこの地を占領して首都とし、イズニクと改名されますが、すぐにビザンツ帝国によって奪還されます。しかし、1204年に第4回十字軍が首都コンスタンティノープルを占領すると、アナトリア西部にニカイア帝国(1204〜1261年)が成立して、ここは中心都市となり、城壁も拡張されました。
1331年にオスマン帝国がこの地を支配すると、イスラム建築が多く建造されるようになりました。現在は「グリーン・モスク」と呼ばれるイェシル・ジャーミィは14世紀に建造され、初期オスマン建築の傑作でもあります。そして、アヤ・ソフィアはオルハン・ジャーミィとしてモスクに改築され、再利用。現在は博物館として公開されています。
15世紀以降は、陶器の中心地として繁栄しました。特にイズニクのタイルは美しいことで知られ、16〜17世紀に建造されたイスタンブールの宮廷やモスクに多用され、これは現在も見られます。しかし、18世紀以降は陶器の生産は南方のキュタフヤに移ったことで衰退。現在は遺構が点在する小さな町となっています。
イズニク(ニカイア):文明間の移行の痕跡はどんな理由で世界遺産に登録される予定なの?
イズニクが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
イズニクは陶器生産の中心地であった場所で、各地に影響を与えました。特にイズニクのタイルはイスタンブールの宮殿で使用され、後に各地に輸出されると、イズニクのタイルは卓越した技術と美しいデザインであったことから、新たな芸術様式を生み出すことになり、世界の主要な博物館に置かれているという点。
登録基準(iii)
13世紀にビザンツ帝国が一時的に崩壊するとその後継国家であるニカイア帝国として存続したことで、ビザンツ帝国が継続されることになりました。さらに、アナトリアのルーム・セルジューク朝の首都であり、オスマン帝国の中心都市であったイズニクは、ビザンツ帝国とオスマン帝国初期の建築史が見られるもの。そして、グリーン・モスクは、初期オスマン帝国建築の優れた例で、これらはビザンツ帝国期の建造物を再利用していることから、当時の独自の政治、経済、文化、芸術の交流を示し、ここで製造されたイズニクタイルは15〜17世紀にかけてオスマン帝国の社会や経済、文化がわかる芸術作品であったということ。
登録基準(v)
イズニクは何世紀にもなって形成された歴史的な文化的景観を持ち、湖と周囲の農業エリアを含めた人間との交流を示すもの。イズニク湖の周囲は肥沃な土地で、オリーブや野菜、果物が栽培されていて、古くから定住地であったためにこれらは収入源でもありました。周囲には、要塞や格子状の区画、古墳などが点在し、この街が古くから湖や農地と密接に結びついたことを示しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
イズニクは、肥沃な土地であったために古くから定住地となり、中心都市へと発展するとニカイア帝国やルーム・セルジューク朝の首都となったほど。そして、オスマン帝国が崩壊すると、オスマン帝国初期の中心地となり、街に残る建造物は当時の文明間の「移行」がわかり、この地の主要産業であったタイルは帝国内だけでなく、各地で新たな芸術様式を生み出すものであったという点で評価されています。
ちなみに、イズニクの周辺の湖の浅瀬には、遺構が発見されていて、どうやらこれは第一回公会議の際に使用された聖堂で、8世紀に地震で沈没した可能性が高いそう。よって、ここは「水中聖堂」と名付けられました。湖に沈むだけに神秘的な雰囲気ですが、地下には成人や子供の骨が発見されていて、どうやら殉教者たちに捧げられた施設だったそう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。