登録区分 | 文化遺産 |
文化遺産 | (6) |
登録年 | 2005年 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のネレトヴァ川沿いに建造されたモスタルは、15〜16世紀のオスマン帝国が支配していた時代に発展した街です。その時期に現在も残る古い橋(スタリ・モスト)が建造されたものの、1990年代のボスニア戦争によってほとんどが破壊。しかし、2004年にユネスコと各国の援助によって復元され、国際協力、民族と宗教の和解のシンボルとなっています。
ここではモスタル旧市街の古い橋(スタリ・モスト)の地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、モスタルについて詳しくなること間違いなし!
モスタル旧市街の古い橋(スタリ・モスト)の地区とは?
ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県の中心都市モスタル。ここは新石器時代から人々が住む地で、15世紀にオスマン帝国によって支配されると「モスタル」と呼ばれるようなりました。これは橋の番人である「モスタリ」が由来。
15〜16世紀にオスマン帝国の国境の街として発展し、この頃に街の中心にあった橋は、オスマン帝国の大建築家ミマール・スィナンの弟子とされるミマール・ハイルッディンという人物によって16世紀に建造されたという記録あります。橋はアーチ橋で、両端には監視塔であるハレビノフカ(ヘレビヤの塔)とタラの塔が置かれていて、これもオスマン帝国時代に建造されたもの。やがて時代が下るとともに、古い橋(スタリ・モスト)と呼ばれるように。
オスマン帝国時代は、川の左岸に宗教建築と公共施設があり、街全体に邸宅や商業施設が点在するように。ここはカトリック教徒のクロアチア人、東方正教会のセルビア人、ユダヤ人、イスラム教のボスニア人が4世紀以上にも渡って共存した多文化都市でもありました。
19世紀になるとモスタルは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の領土となると、右岸が旧市街となり、左岸が新市街へとなり、西欧風の建築物が並ぶようになりました。
負の遺産
1990年代にユーゴスラビアの崩壊とともにこの地でボスニア紛争が勃発。1993年にはクロアチア防衛評議会によってスタリ・モストが破壊されました。そして、戦後、ユネスコと各国の支援を受け、2004年に復元。これによって2005年には世界遺産となり、ここは国際協力、民族と宗教の和解のシンボルの地となりました。
モスタル旧市街の古い橋(スタリ・モスト)の地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
モスタルが評価されたのが、以下の点。
登録基準(vi)
モスタルは多文化、多民族、多宗教の共同体であり、橋が破壊されても再び復元されるほど、平和と国際協力のシンボル的な存在であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
多文化都市であったモスタルは、橋が破壊されたという衝撃的な出来事がありましたが、その後にユネスコや各国の協力によって復元されたという、平和と国際協力のシンボルとして評価されています。
ちなみに、橋の上から若者がダイビングをするという遊びが17世紀から行われていて、あまりにもそれが続いたので1968年からは飛び込み大会が毎年夏に開催されるほどに名物となっています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。