登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4) |
登録年 | 1996年 |
フィレンツェから北東へ105kmの距離にあるラヴェンナは、西ローマ帝国の首都になったこともある古都。ここには5〜6世紀に建造された初期キリスト教の聖堂や礼拝堂、霊廟などが残っていて、これらはオリエントとヨーロッパの建築様式の融合が見られるもの。その中でも傑作とされるサン・ヴィターレ聖堂には美しいモザイク画が残っています。
ここではラヴェンナの初期キリスト教建築物群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ラヴェンナの初期キリスト教建築物群について詳しくなること間違いなし!
ラヴェンナの初期キリスト教建築物群とは?美しいモザイク画はなぜ作られた?

イタリア北東部エミリア=ロマーニャ州にあるラヴェンナは、ローマ帝国が分裂した後、5世紀に皇帝ホノリウスによって当時の首都であったメディオラーヌム(ミラノ)から遷都し、首都となった都市。そして、東ゴート王国がこの地を引き継ぐと、今度は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)によって征服。6〜8世紀にはビザンツ帝国の総督府が置かれ、帝国西側の首都的存在でした。



特に、6世紀に活躍したユスティニアヌス1世とその后のテオドラはこの町に思い入れがあり、司教座でもあるサン・ヴィターレ聖堂にはユスティニアヌス1世とテオドラの美しいモザイクが残ります。ラヴェンナのキリスト教の関連建造物は、5〜6世紀にかけ建造され、精細なモザイクは、オリエントとヨーロッパの様式の融合が見られるもの。それらは外観は質素なのに壁や天井には光り輝くモザイクが施されるという東方のビザンツ文化が特徴で、西洋における初期キリスト教の建築物が見られるという点で評価されています。
登録されているのは、サン・ヴィターレ聖堂、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、ガッラ・プラキディア霊廟、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、テオドリック廟、アリウス派洗礼堂、ネオンのレン聖堂、大司教礼拝堂の8つ。
登録されている主な構成資産
サン・ヴィターレ聖堂



ラヴェンナを代表する初期キリスト教の聖堂。ここは4世紀から小さな教会のような建造物があったとされますが、6世紀に聖堂が建造され、司教座となりました。
初期キリスト教会らしく、八角形の集中式で建造されたもの。内陣には美しいモザイクが多く描かれていて、聖像破壊運動を受けることもなく、現在まで残っています。至聖所には、皇帝ユスティニアヌス1世と后妃テオドラのモザイクなどが描かれていて、これらはサン・ヴィターレ聖堂を代表する作品。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂



ラヴェンナの近郊クラッシスに残る聖堂で、東ゴート王国時代の6世紀に築かれたもの。歴代のラヴェンナ司教の墓所であった場所として知られます。
アプス(後陣)という至聖所の上に造られた半円形のドームに描かれた『キリストの変容』で有名。これは聖書の一場面のことで、イエス・キリストが高い山へ弟子たちを連れて歩き、予言者モーセとエリヤと語りながら光り輝くというもの。
テオドリック廟



東ゴート王国の創始者であるテオドリック1世の霊廟。520年に建造されたものの、535年に東ローマ皇帝のユスティニアヌス1世によって遺骨が取り除かれ、その後はキリスト教の礼拝堂になりました。石棺が残るものの、現在は何も残されていません。
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂



6世紀にキリスト教の一派であるアリウス派を信仰していたテオドリックによって建造されたもの。ヴァチカンは当時の主流派のアタナシウス派であったため、その後アリウス派は異端となり、アリウス派の建築物はあまり現存していないため大変貴重。
しかし、その後、この町を支配したユスティニアヌス1世によって改築されたと考えられていて、この時に現在も残る美しいモザイク画へと修正。今ではアリウス派の部分は残っていないとされてはいます。
ラヴェンナの初期キリスト教建築物群はどんな理由で世界遺産に登録されているの?



ラヴェンナの初期キリスト教建築物群が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
ラヴェンナのキリスト教建築物群にあるモザイクは歴代でも最高傑作であり、非常に重要であるという点。
登録基準(ii)
モザイクはオリエントとヨーロッパの文化が融合した作品で現在も残存。これはヨーロッパの芸術や宗教の原点ともなり、貴重な作品であるということ。
登録基準(iii)
ラヴェンナのキリスト教建築物群は、ローマ時代からの伝統を残しつつ、東方からキリスト教の文化を取り入れて形成された、優れた芸術作品であったという点。
登録基準(iv)
ラヴェンナは、6世紀の宗教関連の芸術や建築物が多く見られるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
ラヴェンナのキリスト教建築群は、この地が東ローマ帝国と接触することで、以前あったローマ時代の伝統を残しつつも、東方の文化が入り混じり、その後のヨーロッパ建築の基本となったという点で評価。
『新曲』で有名なダンテは、フィレンツェ生まれではありますが、フィレンツェを追放され、ラヴェンナで晩年を過ごすことになります。実際にダンテの墓も町に現存していて、サン・ヴィターレ聖堂を「色彩のシンフォニー」として評価していました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。