登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4),(6) |
登録年 | 2023年 |
インド東部のコルカタ郊外にあるサンティニケタンは、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールによって設立された大学のある学園都市。ここは20世紀初頭にイギリス支配下のベンガルにおいて、インド古来の学問を目指しつつ、宗教や民族、性別などを越えた学校であるという点で、当時は革新的な学びの場でもありました。
ここではサンティニケタンが、なぜ世界遺産なのか?世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、サンティニケタンについて詳しくなること間違いなし!
サンティニケタンとは?
インド東部にある西ベンガル州の北部に位置する街。ここはアジア初のノーベル文学賞を受賞した、詩人ラビンドラナート・タゴール(1861〜1941年)の父であり、コルカタの名家であったデヴェンドラナート・タゴールによって1863年に買い取られ、邸宅(サンティニケタン・グリハ)が築かれたのが始まり。サンティニケタンとは「平和の住居」という意味でもあります。
彼は宗教家としても有名で、ステンドグラスのマンディール(宗派に関係なく、礼拝が行われる寺院)も設立し、ベンガルやインド本来の宗教的理想を追求した場でもありました。
その後、息子のラビンドラナート・タゴールが私塾であり、野外学校を1901年にこの地で開校。1913年にノーベル文学賞を受賞すると、その資金をもとに1921年にヴィシュヴァ・バーラティ大学を設立します。
彼はインドだけでなく、世界中の知識人と交友があり、当時の西欧の視点を重視したものでなく、アジアに立脚点を置き、日本語文化研究所などもあるのが特徴。彼の死後、盟友でもあったマハトマ・ガンディーの助言もあって、1951年には国立大学となり、今でもインド有数の名門大学のある学園都市となっています。
サンティニケタンはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
サンティニケタンが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iv)
サンティニケタンは、20世紀初頭のイギリス植民地時代の建築の傾向やヨーロッパのモダニズム建築とは異なり、これらはこの地域全体の古代や中世、民族の伝統を取り入れた建築様式で、汎アジアの近代化へのアプローチを表しているという点。
登録基準(vi)
サンティニケタンは、1948年に第3回国際連合で「世界人権宣言」が採択する前に、言語や文化、人種の間における理解を促進した国際主義がダゴールによって行われた場所で、後にインドの独立を達成したマハトマ・ガンジーとネルーに哲学や歴史認識において影響を与えました。そして、20世紀初頭において「共学」の学校を設立していて、女性の社会進出にも寄与しているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
非常に分かりづらい遺産ではありますが、20世紀初頭のベンガル地方は混沌とした時代であった中、ダゴールによって民族や宗教を越え、インド古来の教育と農村復興を目指した学校が築かれ、その思想はやがてインドの独立へと繋がっていったという点で評価されています。そして、学校そのものは共学で女性教員もいたことから、女性の解放にも貢献しているというのもポイント。
ちなみに、ダゴールはインド国歌の作詞・作曲者であると同時に、隣国のバングラデシュ国歌の作詞者でもあるという人物。1905年に作詞した『我が黄金のベンガルよ』は、彼が若い時に出会った、バウルという吟遊詩人であり、修行者でもあった人物からインスピレーションを受けたもの。バウルは日本語で訳すのは難しく…ベンガル語では「狂った」という意味ではあるのですが、現地では聖者的な扱いもされているので、なんとも表現できない不思議な人々なのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。