オーストリアの世界遺産「シェーンブルン宮殿」とは?その内装を含めて世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1), (4)
登録年1996年

首都ウィーンの郊外にあるシェーンブルン宮殿は、18世紀から1918年までハプスブルク家の皇帝が住む宮殿でした。テレジア・イエローの外観はバロック様式で、装飾のほとんどがロココ様式。宮殿と庭園が織りなす景観は、「総合芸術作品」を代表するものです。

ここでは、シェーンブルン宮殿がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、シェーンブルン宮殿について詳しくなること間違いなし!

目次

シェーンブルン宮殿とは?内装を含めて解説

シェーンブルン宮殿
画像素材:shutterstock

ウィーン中心部から南西へ約7km。シェーンブルン宮殿は17世紀後半から20世紀初頭まで中央ヨーロッパを支配したハプスブルク家の居城だった場所。庭園は広大なフランス式庭園で、園内にはさまざまな建造物があり、それを組み合わせて総合芸術作品(複数の分野の芸術が混ざること)の代表でもあります。

17世紀に神聖ローマ皇帝レオポルト1世(1640〜1705年)は、建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハに夏の離宮の設計を依頼。当時は、フランスのヴェルサイユ宮殿を凌駕する宮殿を建設する予定でした。そして、レオポルト1世の孫であるマリア・テレジア(1717〜1780年)が家督を継承すると、宮殿を大改築して現在のように壮麗な宮殿に。もともと外観は黄金にする予定でしたが、結局は黄金に近い黄色を塗ることに。これにより「テレジア・イエロー」と呼ばれようになりました。

19世紀になると神聖ローマ帝国が崩壊した後も、政治の舞台であり続けましたが、1918年にカール1世が退去すると、宮殿は政府所有の施設へ。

シェーンブルン宮殿
画像素材:shutterstock

宮殿の外観はバロック様式で、装飾のほとんどがロココ様式。部屋の数はなんと1400を超えます。「百万の間」は中米の紫檀が使われ、ペルシアの細密画が飾られた豪華な部屋。謁見の間であり、公式行事などが行われた「鏡の間」は幼いモーツァルト(1756〜1791年)が、マリア・テレジアの娘でやがてフランス王妃になるマリーアントワネット(1755〜1793年)の前で演奏した部屋として知られています。

庭園はフランス式庭園で、東西約1.2km、南北約1kmという広大な庭園。グロリエッテは庭園の中でも最も高い位置にある記念碑。これはマリア・テレジアがプロイセン(現在のドイツ北部を中心とした国家)に勝利したことを記念したもの。他にもネプチューンの噴水池やローマの廃墟風の建設物、ガラス張りの植物園「パルメンハウス」、世界で最も古い「シェーンブルン動物園」など、広大な帝国の威厳を示すように豪華な庭園でした。

シェーンブルン宮殿はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

シェーンブルン宮殿
画像素材:shutterstock

シェーンブルン宮殿が評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
バロック様式の外観であるシェーンブルン宮殿は、さまざまな分野の芸術品が揃った「総合芸術作品」での傑作であるという点。

登録基準(iv)
宮殿と庭園は、ハプスブルク家の歴代の皇帝たちが、それぞれの好みに合わせて数世紀に渡って増築していき、それが現在でも見られるということ。

世界遺産マニアの結論と感想

シェーンブルン宮殿
画像素材:shutterstock

シェーンブルン宮殿と庭園はさまざまな芸術作品が多く揃っていて、存在自体が「総合芸術作品」であるという点を評価。そして、皇帝たちの好みに合わせて増築されていき、宮殿の発展も見られるというのもポイントです。

ちなみに、なぜか敷地内には日本庭園もあります。これは1913年に当時のフランツ・フェルディナント大公がジャポニズムが好きで、庭園内で造営したもの。しかし、第1次世界大戦後は荒廃してしまいました。現在見られるものは、1996年に日本の協力のもとで修復された庭園です。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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