登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3),(6) |
登録年 | 1980年 |
パキスタン北東部、首都イスラマバード郊外にあるタキシラの遺跡は、紀元前6世紀に築かれたビールの丘、紀元前2世紀のシルカップの要塞都市、紀元1世紀のシルスフの街など、3つの遺跡が残ります。ここはペルシャやギリシャ、インドの文化の影響を受けた仏教の中心地でもありました。
ここではタキシラがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、タキシラについて詳しくなること間違いなし!
タキシラとは?
タキシラの遺跡は、パンジャーブ州にあり、首都イスラマバードから北西へ約40km。ここは中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの中継地でした。タキシラは紀元前6世紀に遡る都市遺跡であり、インド方面の仏教の中心地として紀元5世紀まで栄えました。ここには年代ごとに異なる3つの都市遺跡が南から並んでいます。遺跡の発掘は19世紀後半から開始され、20世紀前半まで続けられました。
ピールの丘
遺跡の最も南に位置する丘のことで、紀元前6世紀に現在のイラン一帯を支配した大帝国、アケメネス朝ペルシャによって築かれた都市。現在は城壁が残り、これはインド亜大陸でも初期のもの。ここは紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征記でも記録されているものの、2世紀に現在のアフガニスタン付近を支配したバクトリアによって滅ぼされてしまいます。
シルカップ
川を挟んで、廃墟となったピールの丘の対岸に紀元前2世紀にバクトリアのデメドリオス1世によって築かれた要塞都市。バクトリアの首都となっていて、都市は碁盤の目のような整然とした区画でした。この頃に仏教寺院やストゥーパ(仏塔)が築かれ、かつてはギリシャやインド、ペルシャの芸術様式が混じったガンダーラ美術が並ぶ仏教都市でした。
しかし、紀元1世紀になるとイラン系の遊牧民・スキタイ人によって街は破壊。
シルスフ
遺跡の最も北側に位置する都市遺跡で、ここは紀元1世紀に設立されたクシャーナ朝時代の首都となりました。この王朝も仏教を手厚く保護しました。切石積みの城壁の遺構が現在でも残存。しかし、5世紀になると中央アジアを中心に栄えた遊牧民であるエフタルによって破壊。
タキシラはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
タキシラが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
タキシラにある3つの遺跡はインド亜大陸の都市設計の過程を示す重要な地であるということ。
登録基準(vi)
ピールの丘は、アレクサンドロス大王がタキシラに勝利したという出来事に関連する建造物であるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
タキシラは3つの都市遺跡が南から順に並んでいて、それぞれ別の場所に建造されたことから、インド亜大陸の都市計画の変化が分かるという点で評価されています。そして、アレクサンドロス大王の遠征でもこの地を支配したという記録があり、彼の大偉業を示すものでもあるというのもポイント。
結局、アレキサンドロス大王の東方遠征は現在のパキスタン・インド西部で終わってしまいましたが、もともとはインド中央部まで進行する予定だったとか。彼は征服した街を「アレキサンドリア」という名前をつけることで有名ですが、パキスタンでもいくつか残っています。大王にまだ体力があったら、インドにもアレキサンドリアという町が造られたかもしれませね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。