コジモ・デ・メディチ(1389〜1464年)は、ルネサンス期のフィレンツェを実質的に支配したメディチ家の当主であり、銀行家として成功したことから「祖国の父」と称えられた人物です。コジモ・デ・メディチとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はコジモ・デ・メディチがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
コジモ・デ・メディチとはどんな人物?

父ジョヴァンニ(1360〜1429年)はもともとローマ教皇庁との繋がりもあり、銀行業を受け継ぎ、大いに発展させました。1429年には父が亡くなり、メディチ家当主となります。1433年に政変が起こりフィレンツェを追放されるも、1434年に政敵であるアルビッツィ家を追放し、フィレンツェの指導者としての地位を確立。彼はローマ教皇庁との繋がりを持ち、巧みな政治手腕と財力を駆使して実権を握りました。
彼は芸術家に対して投資をした人物として有名で、ドナテッロ、フラ・アンジェリコ、ミケロッツォなどの初期ルネサンスを代表する芸術家を支援し、フィレンツェを文化の中心地にしました。さらに学芸サークルのプラトン・アカデミーを設立し、人文主義の発展に貢献。1464年に死去しましたが、その影響力は子孫に受け継がれ、孫のロレンツォ・デ・メディチの時代にメディチ家の黄金期を迎えました。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)/イタリア



聖堂は街の中心部に位置してして、フィレンツェのシンボル的存在。その名は「花の(聖母)マリア」という意味で、まさに芸術の街にふさわしい壮麗な建造物でもあります。ここはドゥオモ(大聖堂)とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼で構成されるのが特徴。
大聖堂は1296年に着工し、140年もの歳月をかけて完成。その後ここは何度か改築されるも、コジモの援助もあり、ゴシック様式や初期ルネッサンス様式などが入り乱れた建造物となりました。高さ約100m、直径42mの二重円蓋(クーポラ)は建築家ブルネレスキ(1377〜1446年)によるもの。
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世界遺産マニアの結論と感想
コジモの築いた富と彼が集めた芸術家たちは、メディチ家の発展の基盤ともなり、その後のフィレンツェだけでなく、ルネサンス全体に大きな影響を与えました。彼は政治的手腕だけでなく、文化と芸術を愛した指導者として、ルネサンスを象徴する人物の一人と言えますね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。