ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(244〜311年)は、混乱期である軍人皇帝時代を終わらせ、帝国を安定させた人物。彼自身は専制君主となり、帝国を4分割させた一方、当時流行していたキリスト教徒を多く迫害しました。そんなディオクレティアヌス帝とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はディオクレティアヌス帝とがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ディオクレティアヌス帝とについて具体的に理解できること間違いなし!
ディオクレティアヌス帝ととはどんな人物?

ディオクレティアヌスは、ローマ帝国(紀元前27年〜1453年)の皇帝であり、もともとはディオクレスという名前でしたが、即位時に改名しました。彼は現在のクロアチアにある都市サロナに生まれ、一兵卒から「道長官」と呼ばれる近衛兵をまとめる役職まで出世し、先代の皇帝ヌメリアヌスが崩御すると、軍から推薦され、皇帝へとなった苦労人でもあります。
まず、293年に拡大しすぎた領土を効率よく統治するため、帝国を東西に分け、皇帝(アウグストゥス)2人と副帝(カエサル)2人の合計4人で統治する「テトラルキア(四分統治)」制度を導入しました。そして、彼は軍人と文官を切り離し、官僚・課税制度を整え、インフレ対策も行ったことでも知られます。そして、国境防衛を強化したことから、隣国のサーサーン朝や国境を脅かすゲルマン民族の侵攻を食い止めることにも成功。



一方、303年にキリスト教徒に対する大規模な迫害を行ったことでも有名で、教会の破壊、聖書の焼却、キリスト教徒の処刑や投獄などが行われました。それもあり近年まではヨーロッパでは評価が低かったものの、後世では彼の政策を含め、見直されています。305年、ディオクレティアヌスはローマ史上初めて自ら退位した皇帝となり、故郷の近くのスプリトで隠居生活を送りながら311年にこの世を去りました。
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ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群/クロアチア



クロアチア南部・アドリア海沿岸に広がるダルマチア地方・最大都市であるスプリト。この地は故郷のサロナの近くであったことから、3世紀後半から4世紀初頭にかけてローマ皇帝であったディオクレティアヌスによって隠居用の宮殿が築かれました。
彼の死後、7世紀には東方からアヴァール人とスラヴ人が侵入すると、サロナの市民はかつてのディオクレティアヌスが住んだ宮殿跡に暮らすようになり、宮殿を解体しつつ、遺跡の上に市場や広場、住宅などを築き、ゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな建築物が混在した独特の町並みを現在に残します。
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世界遺産マニアの結論と感想
ディオクレティアヌスは、ローマ帝国を持ち直した皇帝として高く評価される一方で、厳格な統治を行い、さらにはキリスト教迫害により暴君としての側面も持っています。彼の行った改革は一時的に帝国を安定させましたが、それはあくまでも彼のカリスマ性によるところもあり、彼の死後、再び帝国は混乱し、キリスト教徒の勢力も拡大していきました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。