孝文帝(467〜499年)は、北魏の6代皇帝であり、漢化政策を進め、世界遺産の龍門石窟を造営を命じた人物。そんな孝文帝とはどういった人物だったのでしょうか?
今回は孝文帝がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、孝文帝について具体的に理解できること間違いなし!
孝文帝とはどんな人物?

北魏(386年~534年)とは、中国の五胡十六国時代~南北朝時代にかけて存在した王朝で、鮮卑(せんぴ)族の拓跋(たくばつ)氏によって建国されました。開祖である道武帝(どうぶてい)の漢化政策により、中国文化を受け入れつつ発展しました。第3代太武帝(在位423~452年)に華北を完全統一したものの、当時は平城(現在の山西省大同市)にあり、まだ遊牧民としての側面が強い国家でした。
彼は父・献文帝の死によって5歳で即位したものの、しばらく第4代の文成帝の皇后・馮太后(ふうたいごう)が実権を握っていました。馮太后の死去した後、国の中心を北方の平城から中原の洛陽(現在の河南省洛陽市)へ移し、漢民族との文化の融合を進めました。彼は鮮卑の伝統的な服装や言語の使用を禁止し、漢姓を採用し、官僚制度の整備を行います。それもあり、彼の治世は北魏の全盛期とされていますが、鮮卑族の反乱も発生し、499年に33歳に死去。彼の時代、仏教を積極的に支援し、龍門石窟などの仏教遺跡の造営を推進しました。
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龍門石窟/中国



河南省洛陽市の南にある伊河沿いに位置する石窟。孝文帝が493年に平城から洛陽に遷都した際に初めて築かれたのが龍門石窟です。現在は石灰岩の崖に約1kmの長さにわたって、洞窟と石仏が刻まれているのが特徴。
最初に築かれたのは川の西側にある「古陽洞」。その後、北魏時代にいくつか完成したものの、本格的に石窟が掘られるのは唐の時代になってから。
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世界遺産マニアの結論と感想
孝文帝は短い治世であったものの、北魏の政治を安定させ、後の中国王朝に影響を与えました。しかし、漢化政策に反発する保守的な鮮卑族の貴族も多く、孝文帝の死後、北魏は内部分裂へと進んでいきます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。