フリードリヒ2世(1712〜1786年)は、現在のドイツ北部からポーランド西部にあったプロイセンをヨーロッパの強国へと成長させた人物。彼は軍事的な才能や政治的センス、そして文化への関心から「大王」と称されています。フリードリヒ2世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はフリードリヒ2世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フリードリヒ2世について具体的に理解できること間違いなし!
フリードリヒ2世(大王)とはどんな人物?
誕生から啓蒙主義者になるまで

1712年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子としてベルリンで生まれます。彼は厳格な父王の軍国主義的教育を受けるも、文学や哲学を好む知的な少年でした。しかし、1730年に父のやり方に耐えかねて亡命を企てるも失敗し、親友が処刑されるという悲しい事件を経験。そして、1740年に父王の死によりプロイセン国王に即位しました。
彼は「啓蒙専制君主」の代表的な人物とされ、拷問の廃止、宗教寛容例、貧民へ種籾貸与、アカデミーの復興など,近代的な国家建設を進めました。そして、哲学者ヴォルテールとも親交があり、ベルリンを啓蒙思想の中心地とし、彼自身もフルートの名手として121もの曲を作曲したほど。
軍事的成功と晩年



彼は軍事の天才であり、1740年にハプスブルク家のマリア・テレジアの即位に乗じて、オーストリア領のシュレージエン(現在のポーランド南西部)を占領(オーストリア継承戦争)。シュレージエンを吸収し、プロイセンの国力を強化しました。
1756年にオーストリア、フランス、ロシアが同盟を結び、イギリスに対抗(七年戦争)。最終的には消耗戦となり、ロシア女帝エリザヴェータが死去し、親プロイセン派のピョートル3世が即位したことで戦争が終結。シュレージエンを確保した後、プロイセンの地位を不動のものとし、1772年にはロシア、オーストリアと共にポーランドを分割し、領土を拡大しました。
しかし、晩年のフリードリヒ2世は体調不良な上に人間嫌いになり、愛犬だけが心の頼りという生活でした。1786年に彼自身が築いたサンスーシ宮殿で老衰により崩御。正妻であるエリーザベト・クリスティーネはいたものの、彼女との間には子供はおらず、甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムが王として即位しました。
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サンスーシ宮殿と庭園/ドイツ



18世紀後半にポツダムの北東部に建造されたロココ様式の宮殿。設計は友人の建築家クノーベルスドルフが担当。彼は豪華な建築物を提案しましたが、フリードリヒ2世はこぢんまりとしたものを望んだため、王自ら設計に関わり、最終的には全長100mと宮殿としては小さなサイズとなっています。外観はシンプルなデザインではありますが、内部はロココ様式らしく天井まで豪華な装飾が施されているのが特徴。
宮殿の敷地内にはいくつもの庭園が広がっていますが、一番有名なのが宮殿の南部に広がるルスト庭園。宮殿そのものが丘の上に位置しているので、6段のテラスが築かれ、各テラスの上はガラス張りの温室が設置されています。
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世界遺産マニアの結論と感想
フリードリヒ2世は軍事の天才として戦争に勝ち抜き、プロイセンの領土を拡大して、ドイツ統一(1871年)の土台を築きました。彼自身は軍人タイプではなく、悲しい青春を送ったものの、即位後は文化・学問を重視し、彼の理想的国家は築けたという見方もできますね。それもあり、啓蒙専制君主として国家改革を推進し、その理念はヨーロッパ各国の統治モデルにも影響を与えたという点で偉大な人物であると言えるでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。