ホンタイジ(皇太極、1592~1643年)は後金(1616〜1636年)の2代目ハン(王)。そして、清(1636〜1912年)と国号を改めて(実質的な)初代皇帝として、その基盤を築きました。ホンタイジとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はホンタイジがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ホンタイジについて具体的に理解できること間違いなし!
ホンタイジ(皇太極)とはどんな人物?

1592年に女真族のヌルハチ(後金の創始者)の第八子として生まれ、ホンタイジはヌルハチの多くの息子の中でも特に優秀でした。1626年に父ヌルハチが死去すると、後金の指導者を決める後継争いが発生するも、その政治的手腕を発揮し、他の兄弟を抑えて即位。
1636年にそれまでの「後金」という国号を廃止し、新たに「清」と改め、中国全土を支配する国家として「皇帝」へと即位。明王朝に対抗する姿勢を明確にしました。多くの漢人官僚を登用し、明の統治制度を一部採用。その結果、満洲(女真族)・モンゴル族・漢人の三民族連合体制を築くことに成功しました。



明に対抗するため、まずは朝鮮半島に侵攻し、李氏朝鮮を朝貢国(属国)としての従属させました。ホンタイジはモンゴル諸部族を巧みに取り込み、彼らを味方につけ、1635年には明と同盟を結んだチャハル部(モンゴルの主要勢力)を制圧し、モンゴル全体の支配を強化しています。
しかし、1643年にホンタイジは突然死去。彼の死後、後継者争いが起こるものの、最終的に息子の順治帝が即位し、1644年に清は明の都・北京を占領し、中国全土を統治することに成功しました。
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瀋陽故宮(瀋陽故宮博物院)/中国



中国の東北部・遼寧省の瀋陽市に残る、清王朝時代の離宮。ここは清の前身である後金時代の皇宮だった場所で、太祖であるヌルハチと次代のホンタイジがおもに建造したもの。
建造物そのものは1626年に設立され、1636年に完成しました。敷地は6万平方kmと、北京の皇宮の12分の1とかなり小規模。後に中国大陸を征服し、清が成立すると、ここは離宮として使用されました。
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清昭陵/中国



明と清の時代、1368年から1912年まで、歴代の皇帝やその家族が亡くなると豪華な陵墓が建造されました。2004年に遼寧省の清永陵(後金のヌルハチの先祖4代)、清福陵(後金のヌルハチ)、清昭陵(後金のホンタイジ)が登録。
清昭陵は瀋陽市皇姑区隆業山にあります。ここはホンタイジとその妻の孝端文皇后の陵墓。ホンタイジの死後、1643年に建造され、1641年に完成しました。
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世界遺産マニアの結論と感想
形式的には清の初代皇帝は順治帝ではありますが、実質的に清王朝を築いたのはホンタイジでもありました。彼は遠征による領土拡大だけでなく、漢人官僚を登用し、中央集権的な国家体制を整えたことが、後の清の繁栄に繋がったという点で、本来の「清の建国者」とも言えるでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。