朱元璋(洪武帝)とはどんな人物?世界遺産マニアが解説

  • URLをコピーしました!

朱元璋(1328〜1398年)は、中国の明(みん)王朝の初代皇帝・洪武帝であり、彼は貧農の生まれから、中国の皇帝へとなった偉大な人物でもあります。その一方、晩年は部下の処刑を繰り返したということから、暴君ともされる皇帝。そんな朱元璋とはどういった人物だったのでしょうか?

今回は朱元璋(洪武帝)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!

目次

朱元璋(洪武帝)とはどんな人物?

朱元璋(洪武帝)の肖像画
画像素材:Wikimedia Commons

朱元璋は1328年に現在の安徽省鳳陽県に生まれ、8人目の男子ということから「朱重八」と名付けられました。彼は貧しい農民の家に生まれたため、幼少期は非常に苦労し、飢饉によって家族をほとんど失い、その後は僧侶として各地を巡っていました。当時の中国はモンゴル帝国の後継である元朝(1271〜1368年)の支配が揺らいでいたこともあり、各地で反乱が発生。彼は1352年に「紅巾の乱」と呼ばれる反乱軍に参加し、徐々に頭角を現し、指導者の一人となり、朱元璋と名を変えました。

その後、優秀な部下を引き連れ、各地を統一し、元朝を中国から追い出すと、1368年に南京を首都とした明朝を建国し、「洪武帝」として即位。とはいえ、元は完全には滅んでおらず、沿岸部では倭寇の活動が活性化し、明は外敵に悩まされることとなります。

閲江楼(えつこうろう)/南京
画像素材:shutterstock

即位後の彼は、強力な中央集権体制を築き、宰相(最高官職)を廃止し、皇帝が直接統治する制度を確立。彼は農民に対しては寛容で、農業を重視し、土地制度改革を行い、農民の生活を安定させました。

一方、文民や商人に対しては厳しく、晩年は猜疑心が強くなり、大規模な粛清を実施したことでも知られます。 特に晩年から続いた粛清は「胡藍の獄(こらんのごく)」と呼ばれ、自らの官僚・軍人をほぼ処刑し、1万人もの犠牲者を出したとされるほど。

彼は1398年に71歳で死去。孫である建文帝が後を継ぐものの、のちに靖難の変(せいなんのへん)で、朱元璋の四男・朱棣(永楽帝)に王位を奪われてしまいます。

朱元璋(洪武帝)の顔は?

朱元璋(洪武帝)の肖像画
画像素材:Wikimedia Commons

彼の姿が描かれた肖像画には、穏やかな為政者の姿と険しい顔つきの姿が2つあります。しかし、険しい顔つきのほうは、彼自身は本当に醜い顔付きであり、彼の臣下や民衆にはこのように見えていたそう。それもあり、後世の肖像画では威厳を保つために美化された可能性があり、一般的には醜い顔付きであったと考えられています。

さらに顔中に黒い斑点があり、頬骨と顎が突き出ているという肖像画がありますが、これは「真の天子」を示すもので帝王としてふさわしいということから、わざと醜く書かれている…という見方もできて、本当のところは不明ではあります。

朱元璋(洪武帝)にまつわる世界遺産はこちら!

明孝陵/中国

明孝陵
画像素材:shutterstock

明と清の時代、1368年から1912年まで、歴代の皇帝やその家族が亡くなると豪華な陵墓が建造されました。これらの陵墓設計は、明初代皇帝の洪武帝の陵墓である明孝陵(みんこうりょう)から始まり、その後の明の十三陵など、ほとんどの陵墓には地下宮殿が建造され、その様式が確立されました。

明孝陵は、南京にある紫金山の南麓にあり、ここは朱元璋と妻である馬皇后が眠る地下宮殿「玄宮」があるとされるも、未発掘のため詳細は分かっていません。

詳細はこちら↓

あわせて読みたい
中国の世界遺産「明・清王朝の皇帝墓群」とは?世界遺産マニアが解説 かつて中国を支配した明(1368〜1644年)と清(1616〜1912年)、そして清の前身である後金(1616〜1636年)の25人の皇帝と皇后、后などを祀った陵墓は中国各地は点在しており、それぞれ世界遺産に登録。陵墓の位置は風水によって選ばれていて、地下宮殿などがある豪華な造りとなっていて、中国における葬祭建築の発展を示すもの。 ここでは明・清王朝の皇帝墓群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、 明・清王朝の皇帝墓群について詳しくなること間違なし!

世界遺産マニアの結論と感想

朱元璋は、貧しい農家から中国全土を統一し、明朝を築いた人物であるものの、晩年の恐怖政治により、多くの才能ある官僚や武人を失い、後の明朝の混乱を作り出したといった人物です。しかし、彼の統治体制や法制度は後世の皇帝たちにも大きな影響を与えたため、明の基盤を築き上げたという点では大いに貢献しているでしょう。そして、恐ろしいイメージがある一方、治水事業を熱心に行い、農業生産を安定させようとしたことから、農民出身だけに農民に対しては最後まで優しい皇帝でもでありました。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

目次