ジャンヌ・ダルクとはどんな人物?処刑の理由を含めて世界遺産マニアが解説

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ジャンル・ダルク(1412年頃〜1431年)は農民の子であったにもかかわらず、奇跡的にフランス軍の指導者となり、百年戦争(1337〜1453年)においてイングランド軍との戦いで勝利に貢献。19歳頃に処刑されたものの、フランスの英雄であり、現代ではカトリック教会の聖人となりました。そんなジャンヌ・ダルクとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はジャンヌ・ダルクがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ジャンヌ・ダルクについて具体的に理解できること間違いなし!

目次

ジャンヌ・ダルクとはどんな人物?なぜ処刑されたの?

彼女の本名は?誕生日は1月6日?

ドンレミ村のジャンヌの生家
画像素材:shutterstock

ジャンヌの正しい生年月日は実は不明で、彼女が処刑される前に「19歳頃」と発言しているので、処刑日から逆算すると1412年頃にフランス東部のドンレミ村に生まれたことになります。農民の家庭に育ったものの、信仰心は厚かったそう。ちなみに、誕生日は1月6日の公現祭とされていますが、これは後世の作り話であると考えられています。

12歳頃に「大天使ミカエル」や「聖カタリナ」「聖マーガレット」などの聖人の声を聞いたとされ、「フランス王国を救い、シャルル王太子(後のシャルル7世)を戴冠させよ」との使命を受けたとされます。

シャルル7世と謁見

ジャンヌとシャルル王太子
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当時のフランスは「百年戦争」の最中で、イングランドとその同盟国であるブルゴーニュ公国に苦しめられ、現在のフランス北部はほぼイングランドとブルゴーニュ公国に奪われていたほどでした。

1428年に16歳頃のジャンヌは神の啓示を信じ、王太子に会うために旅に出て、地元の貴族ロベール・ド・ボードリクールに断られるも、その後の戦闘で彼女の予言が的中したことから、1429年にフランス中部のシノンにいたシャルル王太子と謁見できることに。

オルレアンにて百年戦争へと参加

オルレアン包囲戦のステンドグラス
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シャルルは半信半疑でしたが、身辺調査を行ったところ、熱心なキリスト教徒であるということから軍を率いる許可を与えました。とはいえ、兵士や戦略家としてではなく、象徴として軍旗を持って兵士たちを鼓舞していたという説が一般的。

ジャンヌは激戦地オルレアンへと送られますが、当時のオルレアンはイングランド軍に包囲され、陥落寸前の状態でした。なんと彼女の登場でフランス軍の士気が高まりわずか8日間でイングランド軍を撃退。オルレアンの解放はフランス軍の大きな転機となりました(オルレアン包囲戦)。

シャルル7世の戴冠からコンピエーニュ包囲戦での捕縛

ジャンヌの像
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ジャンヌの活躍により、フランス軍は次々と都市を奪還し、北部のランスを制圧。フランス国王の戴冠式はランス大聖堂で行うのが伝統であったため、1429年7月に王太子は「シャルル7世」が正式にフランス王として戴冠しました。

しかし、1430年にジャンヌはコンピエーニュ包囲戦にてブルゴーニュ公国の軍に捕らえられ、イングランド軍に引き渡されます。シャルル7世はイングランドとの和平を考えていたために、助けようとせず、彼女は見捨てられてしまいました。

異端裁判の結果、火刑にて処刑…心臓は?

ルーアン城の塔
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ジャンヌはイングランドの占領統治府があったルーアンで異端審問にかけられます。主な罪状は「異端」ということだけでなく、「男装の罪」や「神の声を聞いたとする虚偽」など、物的証拠もなければ、法的な根拠もないのですが、これは政治的な意図が強く、イングランドにとって彼女は危険人物として処刑する必要があったと考えられてます。

彼女は改悛の誓願を立てたにもかかわらず、死刑が決定となりました。当時としては異端というだけで死刑にされるのは異例のことであったものの、1431年5月30日にルーアンの広場で火刑に。死亡時は19歳だったとされています。その場面はあまりにも痛ましく、彼女の心臓だけが焼けなかったという超人的なエピソードがあるももの、これは後年の創作。死後、彼女の遺灰はセーヌ川に流されました。

ジャンヌの性格は?

ジャンヌの像
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ジャンヌは農民の子供であったために教育はほとんど受けておらず、読み書きはほぼできませんでしたが、知恵と直感は優れていたようで、裁判では巧妙に受け答えしたという記録もあるために知性あふれる人物であった様子。

熱心なキリスト教徒であり、神の声からフランスを救うという強い信念。そして、敵の矢を受けてもすぐに立ち上がり、再び戦いに戻ったという勇敢さも兼ね備えていて、まさに理想的なリーダーであったとも考えられています。

死後500年…1920年によやく「聖女」として認定

ジャンヌの肖像画
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百年戦争が終了した後、ジャンヌの母とフランスの異端審問長によって再審が行われ、ジャンヌは無罪と認定されます。彼女は亡くなってしまいましたが、25年後に彼女の名誉は完全に回復しました。

そして、1909年に列福、1920年にカトリック教会の聖人となりました。現在はフランスの守護聖人として崇められていて「オルレアンの乙女」の異名で知られます。その劇的な人生から文学だけでなく、今でも映画や舞台のテーマにされていますね。

ジャンヌ・ダルクにまつわる世界遺産はこちら!

シノン城/フランス

シノン城
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フランス中部アンドル=エ=ロワール県にあるシノンという街にある城。丘の上に位置していて、12世紀はイングランド王の居城になり、ここはイギリスとフランスの一部を支配したアンジュー帝国の南の中心地となりました。

15世紀にヴァロワ朝のシャルル7世の居城となり、ここはジャンル・ダルクと初めて会った場所としても有名。

詳細はこちら↓

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世界遺産マニアの結論と感想

ジャンヌ・ダルクは、百年戦争におけるフランスの救世主として活躍し、フランスの運命を大きく変えた人物であったとされています。彼女の生涯は短かったものの、その後のフランスでは彼女はシンボル的な存在となり、その名は全世界へと知られるようになりました。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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