ドイツ・ベルリンの博物館島にある「ネフェルティティの胸像」で有名であり、古代エジプトでも屈指の美人であるのが、ネフェルティティ(紀元前1370年〜紀元前1330年)。その美しい姿はあまりにも有名であるものの、彼女の人生は謎に包まれています。ネフェルティティとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はネフェルティティがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ネフェルティティについて具体的に理解できること間違いなし!
ネフェルティティとはどんな人物?美人だった?
ネフェルティティは「やってきた美人」という意味

ネフェルティティは、第18王朝(紀元前1570年頃〜紀元前1293年頃)のファラオ・アメンホテプ4世(アクエンアテン、在位:紀元前1353年?〜紀元前1336年?)の正妃だった人物。彼女の出自ははっきりしておらず、後のファラオである大神官アイの娘や現在のイラク北部に位置しているミタンニ王国の王女タドゥキパであったという説もあり、謎に包まれていて、彼女がいつ結婚したのかも不明。
第18王朝の時代は初期から、テーベ(現在のルクソール)の守護神であり、豊穣神であるアメン神の信仰が強く、国家神であったため、神官は絶大な力を持っていました。その状況の中、彼女は夫とともにテーベを放棄して、北に約400km離れたアマルナという都市へと移住。その頃に築かれたとされるのが、ネフェルティティの胸像でした。当時の彫像は写実的に造られることが多い傾向にあり、名前の通り、彼女の胸像は間違いなく、彼女が「美人」であったと確認がとれるもの。
しかし、彼女の記録はアクエンアテンの在位14年目以降は見られなくなり、彼女が亡くなったのか、失脚したのかも不明。アクエンアテンが死去した後は、アマルナは放棄され、アメン神の信仰が再び始まったことから、彼にまつわる記録も異端として意図的に消されてしまったために彼女の記録もほぼ残っていません。
ツタンカーメンの母にあたる?



アクエンアテンとネフェルティティの間には6人の娘がいたとされます。しかし、全員王女だったため、次世代のファラオはアクエンアテンの実妹との間の子どもであり、黄金のマスクで有名なツタンカーメン(在位:紀元前1334年〜紀元前1325年)となったため、彼女の三女であるアンケセナーメン(紀元前1348年〜紀元前1322年)と結婚。それもあり、ネフェルティティはツタンカーメンからすると「義理の母」にあたります。
ネフェルティティにまつわる世界遺産はこちら!
ネフェルティティの胸像(ベルリンのムゼウムスインゼル)/ドイツ



ドイツの首都ベルリン市街を流れるシュプレー川に浮かぶ中洲であるシュプレー島。この島の北西部は、ムゼウムスインゼル(博物館島)と呼ばれる島があり、新博物館には古代エジプトなど、先史時代から古代までの展示品が並びます。
特に有名なのが、1912年にエジプトのアマルナで発見された「ネフェルティティの胸像」。これは1924年にてベルリンの美術館で公開されて以降、ずっとベルリンに置かれています。エジプトは返還要求を100年近くも行っているものの実現していません。最近の研究では、CTスキャンにより、胸像の内部には「しわ」があり、どうやら胸像を完成させた後に、頬と目に石膏を追加したことが分かっています。
詳細はこちら↓



世界遺産マニアの結論と感想
ネフェルティティはその胸像が有名ですが、美人であった以外はそれほど分かっていません。しかし、高貴な人物であるものの、ファラオの正妃であったため、時代の波に飲み込まれ、彼女自身の記録は今ではほとんど消されてしまった悲劇の王妃。しかし、それがまた美しい胸像とともにミステリアスな存在にさせています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。