フィリッポス2世(ピリッポス2世、紀元前382年〜紀元前336年)は、アルゲアス朝マケドニア王国(紀元前808年〜紀元前168年)の王であり、かの有名なアレクサンドロス大王の父として有名ですが、どういった人物だったのでしょうか?
今回はフィリッポス2世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フィリッポス2世について具体的に理解できること間違いなし!
フィリッポス2世とはどんな人物?

マケドニアという地名においては現在「北マケドニア」という国もありますが、もともとはギリシャ北部を指す言葉で、アルゲアス朝マケドニア王国はギリシャのポリス(都市国家)とは異なり、一夫多妻制度など、他のギリシャ国家とは違う独自の文化を持っていました。
彼は紀元前382年にマケドニア王アミュンタス3世(?〜紀元前370年)の息子として誕生。青年期には南部の都市国家テーバイに人質として送られ、そこでおもに重装歩兵を中心とした最新の戦術を学びました。この経験が後の軍事改革に影響を与えたと考えられています。紀元前359年に、兄であるペルディッカス3世が戦死したため、フィリッポスは摂政として権力を握り、その後正式に王として即位しました。
アレキサンドロス大王の父として、帝国の基盤を築く



フィリッポス2世は、ファランクス戦術(重装歩兵の密集陣形で)を改良し、長槍を用いる新しい戦術を導入しました。この戦術は後にアレクサンドロス大王がさらに発展させ、後の大遠征での勝利の基盤となります。
そして、彼はカイロネイアの戦い(紀元前338年)でアテネやテーベなどのギリシャ諸国連合軍を撃破し、この戦いにより、マケドニアはギリシャ全域への覇権を確立しました。そして、フィリッポス2世はギリシャ諸国をまとめ上げ、隣国のペルシア遠征の準備を進めるために「コリントス同盟」を結成。しかし、紀元前336年、娘のクレオパトラの結婚式の際、護衛のパウサニアスに暗殺されました。そして、彼の王子であったアレキサンドロス大王が王国を引き継ぎ、ペルシャ遠征を達成することになります。
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ピリッポイの考古遺跡/ギリシャ



ギリシャ北東部に位置するカヴァラ県に位置する城壁に囲まれた都市遺跡。フィリッポス2世がこの地を征服すると、付近の金鉱の開発を目的にすると同時に軍事貿易の拠点として、紀元前356年に都市を設立しました。
やがて「小ローマ」と呼ばれるほどに繁栄します。都市は城壁で囲まれて、劇場や神殿なども建造。そして、使徒パウロによって初期キリスト教世界の中心地となり、バシリカや教会の跡も残ります。
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アイガイ(現在名ヴェルギナ)の古代遺跡/ギリシャ



ギリシャ北部の中央マケドニア地方のヴェルギナ村にあり、この地方の中心テッサ二ロキから南西に約80kmの位置にあります。ここはかつてはアイガイ(エゲ)と呼ばれる都市とされ、アルゲアス朝の首都と推定される場所。
丘陵地の南側には宮殿や劇場、アゴラ(広場)跡などが残り、北側には紀元前11世紀から続く300基以上の墳墓が残っています。そのうちの一つは研究の結果、フィリッポス2世の墓とされるもの。
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世界遺産マニアの結論と感想
フィリッポス2世は、マケドニアの軍事強化し、ギリシャ統一を達成したことで、アレクサンドロス大王の偉業の礎を築いた人物でもあります。そう考えると彼がいなければ、アレクサンドロスに東方遠征やヘレニズム時代の到来は実現しなかった可能性が高いでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。