クビライ・ハン(在位:1206〜1227年)は、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫であり、5代目の皇帝でもありました。後に国家が分裂しますが、その継承国家である元の初代皇帝であり、中国の知識だけでなく、多文化を許容した君主でもあります。
今回はクビライ(フビライ)・ハンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、クビライについて具体的に理解できること間違いなし!
クビライ(フビライ)・ハンとはどんな人物?
日本語における「クビライ」と「フビライ」の違い

そもそもこの人物の名前は、漢字表記では「忽必烈(クビライ)」となっているため、現在ではクビライとするのが一般的です。しかし、昔のモンゴル語では「フビライ(Khubilai)」と呼ばれていたために、1902年に文部省(現在の文部科学省)では「フビライ・ハン」とし、日本の歴史教育では「フビライ」と読まれたため、長らくその呼び方が一般的でした。
2020年代までは日本の教科書ではフビライの単独表記もしくはフビライ(クビライ)の並列表記がほとんどでしたが、2023年度の教科書では単独で「クビライ」となったので、現代の日本ではクビライで統一されたと言っていいでしょう。
チンギス・ハンの孫として第5代皇帝へ



1215年にチンギス・ハンの四男トルイの次男として誕生。母のソルコクタニは中国文化に精通していて、息子たちに漢人の学問を学ばせたことで、彼は中国の文化や政治について関心を持つようになりました。1259年に兄のモンケ・ハンが戦死。クビライは即位を宣言するも、弟アリク・ブケも皇位を主張し、内戦が勃発(アリク・ブケの乱)。しかし、1264年にアリク・ブケを降伏させ、モンゴル帝国の第5代の皇帝へと即位。
彼はもともと広大な帝国の中でも中国北部を担当していたため、漢人官僚(儒学者)を登用し、中国の統治方法を実施し、首都をモンゴルの都カラコルムから大都(北京)へと遷都。1271年に「大元」と改められ、1279年に南宋(1127〜1279年)を滅ぼし、肥沃な土地を得たと同時に中国全土を統一しました。
元寇を指導するも失敗…



クビライは東南アジアや樺太など、積極的に遠征を行い、帝国の拡大を目指しました。しかし、多くの遠征が失敗に終わります。
その一つとして、日本への侵攻である「元寇」。1274年(文永の役) では、約3万人の軍勢で日本の九州に侵攻するも、日本軍の抵抗に遭い、撤退。1281年(弘安の役)では、 約14万人(40万人とも)の大軍を派遣するも、日本側は防塁などを巧みに活用して抵抗し、最終的には台風により大敗してしまいました。
その死因は?



日本遠征にも失敗し、3度目の遠征を計画するも、東南アジア遠征も結果が出ておらず、元の財政は悪化してしまいます。1285年に最愛の次男チンキムが病死し、精神的にも落ち込み、1294年に大都で78歳にて死去。明解な記録はありませんが、暗殺ではなく、自然死だと考えられています。
その後、チンキムの息子である後継者テムル(オルジェイトゥ・カアン)が即位(第2代元皇帝)。しかし、クビライの死後、元朝は次第に弱体化し、1368年に滅亡します。
クビライの性格は?



彼は他のモンゴル帝国の皇帝と同じく、兄弟争いによって即位したために冷徹な性格であるとされています。その一方、多文化に関してはかなり寛容だったと考えられていて、幼いころから中国文化を学び、彼の治世では中国人やイスラム教徒など、多様な民族を官僚として登用。さらに、ヴェネツィア出身のマルコ・ポーロなど、西洋から訪れた人物を厚遇したことでも知られます。
マルコが語った話を記録した『東方見聞録』によると、クビライはマルコが帰国を望んでいたものの、なかなか認めなかったという記述もあるので、少しワガママなとろこもあったかもしれませんね。
クビライ(フビライ)・ハンにまつわる世界遺産はこちら!
上都/中国



元を建国した際は首都となり、大都(現在の北京)へ遷都した後は夏の離宮として利用されるようになりました。この都はフビライ・ハンが劉秉忠という中国人の政治家に命令して作られた都市で、中国の伝統的な風水理論に基づいて建造されたもの。ここはモンゴル人の都ではありますが、中国とモンゴルの文化が融合した都でもあり、敷地内には寺院や宮殿、野営地、運河の跡などが今でも残っています。
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世界遺産マニアの結論と感想
クビライは、それまで遊牧民としてのモンゴル帝国を中国風の王朝「元」に変えたという点で偉大な皇帝でもあります。彼の治世では、多文化との交流と経済を整備したことで繁栄したものの、軍事遠征では失敗が多く、経済に大きな負担に。それもあり、彼の死後、モンゴル帝国は分裂していき、元も滅亡してしまいます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。