ラファエロ・サンティ(1483〜1520年)は、美しい構図や柔らかな表現、調和の取れた色彩で有名で、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠の一人とされています。ラファエロ・サンティとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はラファエロ・サンティがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ラファエロ・サンティについて具体的に理解できること間違いなし!
ラファエロ・サンティとはどんな人物?

1483年にイタリア中部の都市ウルビーノで生まれ、父のジョヴァンニ・サンティも画家であったため、幼い頃から絵画の基礎を学び、すぐに画家としての才能を発揮。そして、時期は不明ですが、当時のイタリアのウンブリア派を代表する画家ペルジーノ(1448年頃〜1523年)のもとで学び、今後の作品において影響を大きく受けます。
1504年からはフィレンツェを中心に活躍し、当時既に名の高かったレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けます。この時期にダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』の影響を受けた『牧場の聖母』といった傑作など、次々と制作。



1508年ころ、ラファエロはローマ教皇のユリウス2世(1443〜1513年)に招かれ、ヴァチカン宮殿の装飾を手掛けます。この時期に世界遺産にも登録されている、ヴァチカン宮殿ラファエロの間にある『アテネの学堂』などの壁画を制作し、名声を確立。サン・ピエトロ大聖堂の建築責任者だったドナト・ブラマンテが1514年に死去したため、聖堂の設計も担当し、建築家としても活躍しました。
しかし、突然の高熱により、1520年に37歳という若さで死去。その後、ローマのパンテオンに埋葬され、現在もここに墓が存在しています。
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ウルビーノ歴史地区



イタリア北東部にあるマルケ州。ウルビーノはマルケ州の北西部にある小さな町は、ラファエロ・サンティの生まれ故郷。
15世紀にモンテフェルトロ家の当主フェデリーコがウルビーノ公になると、彼はヨーロッパ各地から芸術家や学者を集め、ここにルネサンス文化が花開きました。1444年にフェデリーコによって建造された壮麗なドゥカーレ宮殿は、現在は国立マルケ美術館となり、開放されていて、ラファエロの作品なども置かれています。
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ラファエロの間(バチカン美術館)/バチカン市国



バチカン宮殿の北側にあるローマ教皇のコレクションを展示する美術館。宮殿の一部を美術館としていて、図書館や「ラファエロの間」なども含まれています。
特にラファエロの間は4つの部屋の総称で、さまざまなテーマで描かれたフレスコ画で埋め尽くされたもの。その中でも『アテナイの学堂』は、歴史的に有名な学者や芸術家、軍人が描かれたもので、ラファエロの最高傑作とされています。
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パンテオン/イタリア



ローマの中心部にある神殿。1世紀に初代ローマ皇帝のアウグストゥスの側近であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造。もともとはローマのさまざまな神を祀る万神殿でした。しかし、火事で消失したため、118年から128年にハドリアヌス帝によって再建。
現在見られるのはこの時代のもので、その後、キリスト教の聖堂となり、ラファエロの墓もここにあります。
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世界遺産マニアの結論と感想
ラファエロは遠近法を駆使し、調和のとれた構図であり、その柔らかい色彩や自然な表情が特徴の作家で、ルネサンス芸術の集大成と呼ばれる絵画を多く残しました。しかし、その後のマニエリスムやバロックという芸術様式になると、主流からは外れますが、19世紀にはラファエル前派として再評価されたりと、彼の残した作品は後の芸術様式に大きく影響を与えています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。