永楽帝とはどんな人物?世界遺産マニアが解説

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永楽帝(1360〜1424年)は、明の第3代皇帝であり、首都を南京から北京へと遷都して、皇帝の宮殿である紫禁城の基礎を築きました。彼の治世は『永楽大全』を編纂したり、海外遠征を行ったりと、明王朝の最盛期の一つとされるほど。そんな永楽帝とはどういった人物だったのでしょうか?

今回は永楽帝がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、永楽帝について具体的に理解できること間違いなし!

目次

永楽帝とはどんな人物?

第2代・建文帝を廃位して「永楽帝」として即位

永楽帝の肖像画
画像素材:Wikimedia Commons

彼は明の創始者である洪武帝(朱元璋)の四男として生まれ、朱棣(しゅてい)と名付けられました。朱棣は現在の北京周辺を治めていましたが、1398年に洪武帝が亡くなると、長男(朱標)の子である建文帝(朱允炆)が即位。しかし、建文帝は「削藩(さくはん)」と呼ばれる地方の諸王を排除する政策を進めたために、朱棣は「靖難の変(せいなんのへん)」という反乱を起こし、1402年に建文帝を廃位。永楽帝として即位しました。

永楽帝は即位後、北方のモンゴル勢力を抑えるため、1421年に正式に首都を南京から北京へ遷都しました。その際に「紫禁城」の建設を開始。これは後の清朝時代まで続く、中国の皇宮の中心となりました。そして、儒教の経典や歴史書、文学など、すべてをまとめた『永楽大典』を編纂したりと、文化事業にも力を入れています。

鄭和の大航海

鄭和の彫像
画像素材:shutterstock

永楽帝の時代、宦官の鄭和(ていわ、1371年〜1434年頃)を指揮官とする「大航海」が行われました。鄭和は7回にわたる航海で、東南アジアだけでなく、インドやアラビア半島、アフリカ東岸まで達し、多くの国を朝貢させることに成功。当時はアジアにおいて非常に珍しかったキリンなど、さまざまな珍しい動物も持ち帰っています。

とはいえ、永楽帝がこの大事業を行った本来の目的は不明ではあるものの、明朝の国威を多くの地域で示し、外交関係を拡大することには成功しました。

永楽帝の死因は?

永楽帝の彫像
画像素材:shutterstock

永楽帝は北方に追いやったモンゴル勢力(オイラトやアルクタイ)を抑えるため、5回にわたり自ら遠征を行いました。軍事的には成功はするものの、追い出す度に勢力を取り戻し、国境を脅かされるということが繰り返し発生。

結局、1424年に永楽帝は最後のモンゴル遠征からの帰路、河北省の榆木川で病にかかり、崩御。具体的な病名は不明ですが、長年の戦争と過労、老齢による衰弱が原因と推測されます。享年64歳。

永楽帝の次の皇帝は?

画像素材:Wikimedia Commons

息子の洪熙帝(こうきてい)が第4代皇帝として即位しましたが、彼はもとから病弱ですぐに亡くなってしまいます。その後は、孫の宣徳帝(せんとくてい)が皇帝となりました。

永楽帝の孫は?

画像素材:Wikimedia Commons

宣徳帝(せんとくてい、1399〜1435)は、明の第5代皇帝で、本名は朱瞻基(しゅせんき)。彼は祖父の永楽帝時代に行われた大規模な軍事遠征を縮小し、内政を安定させるために奔走します。

しかし、1435年に37歳の若さで崩御しました。その後、政治の実権は宦官や外戚に握られることになり、明は徐々に衰退へと向かっていきます。

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紫禁城(故宮博物院)/中国

紫禁城(現・故宮博物院)/北京と瀋陽の明・清王朝皇宮
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北京の中心部に位置する紫禁城は、72平方kmの面積を誇る世界最大の木造建築物。現在は「故宮博物院」として博物館となっています。「故宮」とは、古い宮殿という意味で、これは後年にこのように呼ばれたもの。もともとは紫禁城と呼ばれていました。

この場所にはもともと元(1271〜1368年)の時代に宮殿があり、1406年永楽帝が元の宮殿を改築し、ここを皇宮として使用。しかし、17世紀には大幅に破壊され、現在の建築物は、17〜18世紀の清王朝によって建造されたもの。

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天壇/中国

天壇
画像素材:shutterstock

楽帝が南京から北京に遷都すると、1420年に紫禁城とともに天地壇が建造されました。そして、16世紀になると、天と地を別々に祈ることが決定したため、天地壇を天壇と地壇に分離させ、ここは天壇と呼ばれるにように。

天壇は皇帝が自ら祈り、天に報告する場所でもありました。そして、三層の屋根を持つ円形の記念殿は、東アジアの建築に影響を与えたもの。

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世界遺産マニアの結論と感想

永楽帝は甥である建文帝を廃位させて皇帝となったものの、明の最盛期を築いた名君でもありました。彼の時代の明は、軍事・文化・外交に大きな発展を遂げました。一方、探検や外征に資金を多く使ったことで、明の衰退へと導いたという側面もあり、賛否の分かれる皇帝でもあります。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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