「クレオパトラ」ことクレオパトラ7世は、世界三大美人の一人として有名ですが、彼女のパートナーとして有名なのがローマの執政官であり、最大の権力者であったカエサル。映画などでは絨毯に包まれたクレオパトラがカエサルと出会い、恋に落ちるというイメージがありますが、実際はどんな関係だったのでしょうか?
今回はカエサルとクレオパトラの関係を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、二人の関係性にについて具体的に理解できること間違いなし!
カエサルとクレオパトラ…2人の出会いは?

「クレオパトラ」といっても、その名前を持つ人物は実はたくさんいますが、一般的に我々がイメージするのは「クレオパトラ7世(紀元前69年〜紀元前30年)」のこと。クレオパトラは、プトレマイオス朝(紀元前305年〜紀元前30年)のエジプトの王女であり、同王朝の最後のファラオ(息子と共同統治)となりました。
紀元前48年に若きクレオパトラ7世は兄弟との王位争いに直面していて、その際にローマの有力な政治家であったガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー、紀元前100年〜紀元前44年)に助けを求めました。カエサルは当時エジプトに滞在していて、政敵のポンペイウスとの戦闘の経緯で首都アレクサンドリアに滞在していたのです。
伝説によれば、クレオパトラは自身をカエサルに引き合わせるため、絨毯に巻かれて密かに届けられたと言われています。しかし、これは資料では確認できないエピソードではありますが、実際に彼女はカエサルの注意を引くことに成功し、2人は恋愛関係になりました。カエサルは52才、クレオパトラは21才であったとされ、かなり年齢差はあったとされています。
クレオパトラ7世の配偶者は?夫はたくさんいる?



古代エジプトでは、ファラオの血族は高貴とされていて、あくまでも継承の関係性を深めるということから、兄弟姉妹婚が行われることがしばしばありました(ただし、名目上の結婚だったという説も)。よって、彼女も弟であるプトレマイオス13世(紀元前63年〜紀元前47年)やプトレマイオス14世(紀元前59年頃〜紀元前44年)と慣例に従い、結婚していました。
しかし、これは共同統治者としての即位であり、彼女はプトレマイオス13世に追放されていたところ、カエサルはクレオパトラを支援することで、結果的にプトレマイオス13世との仲を取り戻すことができました。一方で、カエサルにとっても、エジプトという豊かな資源を持つ国を同盟国として保持することはローマにとって大きな利点でもあったのです。そして、カエサルはプトレマイオス13世を殺害し、クレオパトラはエジプトの実権を握ったのでした。
今でいえば不倫?とはいえ、二人の間には子供までいた



カエサルには確認できるだけで3人もの妻がいましたが、とにかく「英雄色を好む」とはこのことで、愛人が多くいたことでも知られます。よって「ハゲの女たらし」と皮肉なあだ名もあり、元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたというほど(これは事実ではないでしょうが…)。しかし、そんな彼にはローマ人との間には子供がいなかったです。
カエサルとクレオパトラの間には、婚姻関係を結ぶことなく、紀元前44年に男子が生まれ、彼はカエサリオン(小カエサル)と名付けられました。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの正式な後継者として認めさせようとしましたが、ローマでは公式には認められず、結果的には、母と共同統治ではあったものの「プトレマイオス15世」としてエジプトのファラオとなりました。
世界遺産マニアの結論と感想
カエサルが紀元前44年にローマで暗殺されると、クレオパトラの立場は再び不安定になりました。今度は彼女はカエサルの部下であった、新たな権力者マルクス・アントニウスと同盟を結び、婚姻関係を結びます。しかし、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスに敗北し、結果的には自害への道を歩むことになりました。
カエサルとクレオパトラの関係は、単純なものではなく、国家と愛…そして、政治が交錯する複雑な関係であり、最終的にはローマとエジプトの関係を変える結果となりました。それもあり、この関係はウィリアム・シェイクスピアをはじめ、多くの文学や芸術作品にインスピレーションを与えることになったのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。