クレオパトラの墓やミイラはどこにある?世界遺産マニアが考察

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古代エジプトの女王というと、「世界三大美人」の一人として有名なクレオパトラをイメージするかもしれません。しかし、我々はクレオパトラが美人であり、コブラで自殺したということはよく知っているものの、そのミイラが置かれた墓がどこにあるかは全く知りません。

それもそのはず、実はまだそれらが「発見」されていないのです。その理由は研究者によってさまざまではあるものの、その候補地を含めて現段階での結論を世界遺産マニアが考察してみました。

クレオパトラの墓やミイラはなぜ見つかっていない?

1、クレオパトラのミイラは存在する可能性があるものの、単純に見つかっていない?

サッカラ(サッカーラ)遺跡

エジプトのファラオといえば、第18王朝のツタンカーメンをはじめ、割と多くのミイラが発見されているので意外かもしれませんが、既に4300年前のミイラが発見されているにもかかわらず、2000年に亡くなったクレオパトラのミイラはまだ見つかっていません。

そして、歴史家も特に記していないので、その遺体の行方は分かりませんが、エジプトにおいては古代エジプトでも終盤である末期王朝時代(紀元前664年〜紀元前332年)以降もミイラは作られていて、クレオパトラが女王であったプトレマイオス朝(紀元前332年〜紀元前30年)時代も多くのミイラが発見されています。よって、資金のあった王族や貴族は当然ミイラになったと考えられていて、三大ピラミッドのあるギザ近郊のサッカラでは、2020年には末期王朝からプトレマイオス朝にかけて100基以上の木棺が発見されていたりと、年々発見され続けています。

よって、単純にまだ見つかっていないだけ…と考えるのも当然ではありますね。

2、埋葬はされたが、ミイラにされていない

エフェソスの古代都市

クレオパトラは父であるプトレマイオス12世が亡くなった後は、兄弟姉妹と争い、妹であるアルシノエ4世(紀元前68年または67年〜紀元前41年)は紀元前47年のナイルの戦いで敵対したことから、トルコのエフェソスという都市で幽閉されていました。しかし、紀元前44年に暗殺されています。

1926年に、彼女の遺骨はエフェソスにあった墳墓から発見されていて、これは特にミイラ処理はされていなかぅたと考えられています。もちろん、彼女は反逆者であり、手厚く葬られたわけではないのですが、クレオパトラも政争で負けて自害したので、ミイラにされずに葬られたという可能性も0ではありません。

墓の候補地は既に目星が付いている?

タップ・オシリス・マグナ神殿

ここまで語っておいて、大変恐縮ですが…クレオパトラの墓は長年謎とされているものの、実は目星はある程度ついています。

2010年代からエジプト考古学会では、彼女の墓としてかなり可能性が高いとされている神殿は目星が就いてました。それはエジプト北部の大都市アレクサンドリアの郊外にある「タップ・オシリス・マグナ神殿」です。ここはプトレマイオス朝の神殿跡で、神殿には多くの王族や貴族が墓地として利用していたと考えられるもの。しかし、現在は壁や灯台跡しか残されておらず…遺跡としてはあまり見どころはありません。当然世界遺産にも未登録。

しかし、ここではクレオパトラの頭部像や硬貨などが発見されたことから、彼女の墓を含めたプトレマイオス期の王族の墓であったという可能性は大いにあります。現在も発掘は続いていて、ミイラや副葬品も続々と発見。ここで彼女の墓が発見される日は遠くないかもしれませんね。

世界遺産マニアの結論と感想

クレオパトラの墓は見つかっていないものの、遺体は発見できなくともその痕跡の発見は…もはや時間の問題というレベルまでは近づいてはいます。そうなると、彼女が本当に美人だったかどうかも、ようやく決着が付くかもしれません。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。