マリー・アントワネット(1755〜1793)は、オーストリア出身のフランス王妃で、ルイ16世の王妃。彼女は1789年に勃発したフランス革命により、最終的にはギロチンによって処刑されてしまいますが、なぜ彼女が処刑される運命に至ったのでしょうか?
今回はマリー・アントワネットが処刑された理由トを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、マリー・アントワネットの処刑の様子について具体的に理解できること間違いなし!
なぜマリー・アントワネットはギロチンで処刑されることになったの?

マリー・アントワネットがギロチンで処刑された理由は、フランス革命の中で王政が廃止され、彼女が「国家の敵」とみなされたため。彼女はフランス王妃として贅沢な生活を送り、「浪費家(公費乱用)」として民衆の怒りを買っていました。さらに、1791年に国王一家が国外への逃亡を試みたことが反逆と見なされ、オーストリア(母国)との内通疑惑が彼女の立場を決定的に悪くしてしまいます。
1793年8月に最終的に革命政府によって裁判にかけられ、彼女は内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画…ありとあらゆる罪を突きつけられ、死刑が求刑されるも、彼女は巧みな話術ですべて否定。言論ではどの人物を負かすことはできても、1793年10月16日に午前4時ころに死刑判決を受けてしまいます。
マリー・アントワネットの処刑日と最後の食事



ちなみに、処刑日は死刑判決が出た1793年10月16日という酷い内容でした。マリー・アントワネットは、判決を受けた後、ルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残したものの、最後の食事の希望を部屋の係から尋ねられると「何も入りません」と答えたとされています。
つまり、贅沢を尽くしたフランス王家の最後の食事は何もなかったということ。そして、それ以前の食事が順番的には最後の食事であったとされるも、それがどんなメニューなのかが記録はありません。
彼女の最後の言葉はどんなものだった?



彼女はコンシェルジュリー監獄から連れ出され、12時15分ころに興奮した民衆の前で処刑されました。彼女は処刑の直前まで気丈に振る舞い、堂々とした態度を保っていたと言われています。
処刑の直前、マリー・アントワネットは処刑人の足を踏んでしまい、咄嗟に「許してください、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」と言いました。これが彼女の最後の言葉とされています。彼女は自らの死を受け入れ、静かに最期の時を迎えました。
マリー・アントワネットの首はどうなった? 生首はどこに安置された?



ギロチンによって首を落とされた後、彼女の生首は処刑人によって持ち上げられ、群衆に見せられました。これはフランス革命期の処刑の際に一般的に行われた行為であり、民衆に「王政の終焉」を象徴的に示す目的がありました。ところで単純な疑問ですが…首はどうなったのでしょうか?
なんと、彼女の遺体と首はマドレーヌ墓地(現在の贖罪礼拝堂)に無造作に埋められてしまいました。…当時は「罪人」であったために仕方はないことですが。1815年に王政が復古すると、ルイ16世の弟であるルイ18世によって正式に発掘され、サン=ドニ大聖堂に埋葬されました。しかし、すべてが揃ったわけではなく、生首と胴体がどのような状態になったのかは定かではありません。
世界遺産マニアの結論と感想
マリー・アントワネットの処刑は、政敵である王妃であったとはいえ、罪状も適当であり、取り調べも大してされていない、懲罰的なものでした。しかし、これも時代の流れであり、当時の民衆のフラストレーションは国王夫妻の死を持って解消するしかなかった…とも考えられますね。結局、彼女のギロチン刑はフランス革命の象徴的な出来事の一つとして、今なお多くの人々に語り継がれ、彼女の堂々たる姿は逆に彼女の「王妃としてのプライド」を見せつけたエピソードでもありました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。