『ローランの歌』はフランス最古の叙事詩として、現代の文学や文化に深い影響を与えています。この物語は、中世のヨーロッパの英雄像、そして騎士道精神を描いていて、現代の小説や物語、ゲームなど、多くの作家にインスピレーションを与えたもの。特にローランは有名な騎士であるものの、その実態は意外と日本人には知られていません。
今回は『ローランの歌』を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、『ローランの歌』について具体的に理解できること間違いなし!
ローランとはどんな人物?作者は誰?
『ローランの歌』はいつ成立した?
『ローランの歌』は、11世紀末ごろに成立したとされるフランス最古の叙事詩です。この作品は古フランス語で書かれ、約4000行の韻文十音綴(おんてつ)で構成された作品。しかし、作者は不詳であり、具体的な成立経緯も明確ではありません。一般的には、ゲルマン人などの口承によって伝えられた物語が、最終的に1つの詩にまとめられたと考えられています。
イギリスのオックスフォード大学には、最古の写本としては1170年頃に執筆されたものが現存していて、他にもドイツ語やアルピタン語(フランス南西部で話されてているインド・ヨーロッパ語族)などがあります。
ローランは実在したの?
詩の舞台は中世フランス、とくにイベリア半島での出来事を中心にしています。778年にスペイン北部で発生したロンスヴォーの戦いという歴史的事実を基にしていますが、その内容はほぼフィクションと考えられるもの。ローランという人物も、フランスを中心に大帝国を築いた「カール大帝」お抱えの歴史家のアインハルトの記述のみで、彼によると「ブルターニュ辺境伯であるローランが最後尾で戦死した」という記述のみで、どういった人物かは分かっていません。
『ローランの歌』のストーリーは?
『ローランの歌』では、フランク王国のカール大帝の甥とされるローランという騎士を中心に展開されます。カール大帝は当時スペインまで達していたイスラム勢力と戦争を行っていて、叙事詩ではローランは勇敢な騎士であり、大帝からの信頼も厚いという人物でした。しかし、ローランの継父のガヌロンは、彼によってイスラム軍への和睦の使者として指名されたことで、ローランを激しく憎み、イスラム軍に内通して、ローランを殺害しようとします(ローランは悪意を持っていたわけではなかったのですが、ガヌロンは疑心暗鬼に陥ってしまったのです)。
その後、フランク王国軍がイベリア半島から撤退する際、ピレネー山脈にあるロンスヴォー峠で待ち伏せされてしまいます。この戦いではローランが殿(しんがり)の部隊を務め、勇猛な戦いを繰り広げました。しかし、奮戦するも部隊はほぼ絶滅してしまい、プライドの高いローランはフランク王国軍への援軍要請のための角笛は吹けず、最後の最後まで吹くことはできませんでした。結局、ローランと仲間たちは力尽きてしまうものの、騎士の鏡として語り継がれていきます。
ヨーロッパでは定番の伝説となり、ドイツではローラン像が世界遺産に!
『ローランの歌』は、ロンスヴォーの戦いという歴史的事実を基にしていますが、実際に戦ったのはイスラム軍ではなく、バスク人であり、戦闘の経緯もほぼフィクション。しかし、この叙事詩は中世フランスの叙事詩(武勲詩)の傑作であり、愛国心や忠誠心といったテーマを重視しています。そのため、当時のフランス社会においては、国家の団結のための英雄伝説として重要な役割を果たしました。
中世ヨーロッパでは、吟遊詩人の定番の演目となり、各地で語り継がれると、ドイツにおいてはローラント(ドイツ語でローラン)は中世の終わりに、各自由都市では自由の象徴として像が築かれるようになりました。それもあり、北西部の都市ブレーメンのマルクト広場では、現在でもローラント像が残され、2004年には世界遺産に登録されました。
↓「ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像」の詳細はこちら
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。