よく源義経は奥州藤原氏の都・平泉で、当時の当主の泰衡に殺害されたと見せかけて生き延び、海を渡り、やがて「チンギス・ハンとしてモンゴル帝国を築いた!」という伝説がありますが、これは本当なのでしょうか?
今回は義経=チンギス・ハン説を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、義経=チンギス・ハン説について具体的に理解できること間違いなし!
どうしてそんな伝説が生まれたの?

源義経(1159〜1189年)は、源氏の武将として兄の源頼朝に命じられて平氏を滅ぼしました。しかし、後に頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼るも、1189年に藤原泰衡に討たれたとされています。 しかし、「義経は実は生き延び、モンゴルに渡り、チンギス・ハンになった」という説が明治になると登場し、大正時代にはブームとなりました。
もともとは江戸時代中期から義経の生存説は多く唱えられていて、当初は北海道でアイヌの棟梁となったという説から、次第に海を越えて金国(1115〜1234年)へと移住し、やがて子孫が清国(1644〜1912年)を築いたという説になり、明治になると、いよいよチンギス・ハンになったという説へと変化。
誰がそんな説を唱えたの?



江戸時代からさまざまな学者が義経の生存説を唱えていましたが、それらを踏まえて、斬新な学説を唱えたのが、ドイツ人医師・博物学者のシーボルト(1796〜1866年)。彼は日本の歴史や伝説に興味を持ち、世界史と比較しながら、このような結論に至ったのです。その根拠としては…
1、年代の一致
・源義経:1159年生まれ、1189年死亡
・チンギス・ハン:1162年頃生まれ、1189年にチンギス・ハンとして即位、1227年死亡
両者の生きた時代が不思議と一致していて、「もし義経が生き延びていたならば、チンギス・ハンと同じ時代に活躍していたことになる」と考えました。義経は奥州藤原氏によって最終的に討たれたとされるも、遺体が発見されていないことから「実は大陸に逃げたのでは?」とも推測すると違和感はない…というもの。
2、チンギス・ハンのハン(汗)は日本語の「守」が由来?
ハンというのは、騎馬民族の君主に与えられる称号。もともとは部族長は「カガン(可汗)」と名乗っていたのですが、後に「ハン(汗)」となりました。「ハン」が日本で「大守(たいしゅ)」として地方を治めていた長官の「守」にルーツがあるというもの。
3、チンギス・ハンの掲げた旗が白であったこと
歴史書によると、チンギス・ハンは「ハン」として即位した際に白旗を使用したということで、これは源氏のシンボルである白旗と一致しているということから、関係性が見られるというもの。
シーボルト説は否定されるものの…大正時代になるとこの説は大人気に



シーボルトの説は興味深いものの、もちろん根拠に乏しく、当時から学者たちは否定されていました。そもそもチンギス・ハンは、モンゴル高原のボルジギン氏族の出身であり、その生い立ちは中国の歴史書にも詳細に記録されているので出自はしっかりとしている人物でもあります。
しかし、大正時代に小谷部全一郎氏の『成吉思汗ハ源義経也』という本が1920年代に出版されると、ナショナリズムを高揚させる内容もあってからか、批判はされるものの、この説は人気となりました。とはいえ、この小矢部氏は日ユ同祖論(日本人の祖先がユダヤ人であるという説)も展開しているので…割とトンデモ説を平気で唱える人物でもあったのですが、もともと義経の伝承が多い東北や北海道では、ウワサ程度で今でも支持はされています。
とはいえ、戦後はこの説を本気で信じている人はほぼ皆無となり、現在は物語やゲームなどのネタに使われる程度です。
世界遺産マニアの結論と感想
シーボルトの義経=チンギス・ハン説は、いろいろと波紋を呼んだものの、歴史学的には完全に否定されています。そもそも本当にこの説が世界的に支持されているのなら、日本以外でも話題になるはずですが、海外ではほぼ皆無なので、世界的に見れば「日本人が勝手に言っているだけ」の説でしょう。…お話になりません。
しかし、日本の歴史ロマンの一つとして、今も多くの人々の想像力をかき立てるという点では、シーボルトは創作物にインスピレーションを与えてはいるので、その点は大きく貢献をしているのではないでしょうか?
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。