登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4) |
登録年 | 1978年 |
ポーランド南部の古都クラクフ。街の起源は10世紀に遡り、11〜17世紀まで首都として栄えました。街には王の居城だったヴァヴェル城、中央ヨーロッパで2番目に古いヤギェウォ大学など、ポーランド王国の輝かしい時代の建築物が現在でも残っています。
ここでは、クラクフ歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、クラクフについて詳しくなること間違いなし!
クラクフ歴史地区とは?
クラクフは、ポーランド南部のヴィスワ川沿いに作られた街。ここは3つのエリアに分けられ、北部の旧市街、王宮のあるヴァヴェルの丘、南部のカジミェシュ地区とそれぞれ分かれています。
クラクフの起源ははっきりとしませんが、記録として残っているのは10世紀から。ポーランド王国が築かれた11世紀になるとクラクフは首都となります。13世紀にモンゴル帝国軍によって徹底的に破壊されるもすぐに街は再建し、城壁で囲み、邸宅や宮殿、教会、修道院などの施設が多く造られました。14世紀になるとヴァヴェル城は現在のような壮麗な姿に変化。クラクフは、中央ヨーロッパで最大の商業都市となり、特に芸術や工芸品で栄え、東西の文化が融合した国際都市でした。中央ヨーロッパで2番目に古いヤギェウォ大学もあることで学術都市としての側面も。
しかし、16世紀から王国の中心が現在の首都であるワルシャワへ移っていき、やがてワルシャワへ遷都。18世紀後半からはハプスブルク家の支配を受け、その後もさまざまな国から支配されましたが、1945年にポーランド人民共和国として独立すると、1978年には最初の世界遺産として登録されました。
登録されている主な構成資産
ヴァヴェル城
16世紀にワルシャワに遷都するまでポーランド王国の王宮として利用されました。建設当時はロマネスク様式でしたが、現在の城は14世紀にカジミェシュ3世によって建造されたゴシック様式の城がベースとなっています。そして、改修と増築が繰り替えし、現在の豪華絢爛な城へと変化しました。
歴代の王は、タペストリー収集が趣味で、城内にはオランダやフランスなどで織られた秀逸なデザインのタペストリーが365枚も揃った「ヴァヴェル城のタペストリー」があることで有名。
聖マリア教会
中央広場に面した街のシンボル的存在。建造は13世紀ですが、モンゴル人によって破壊され、14世紀になるとカジミェシュ3世によって再建されました。15世紀には、ファイト・シュトースの祭壇画も追加。高さ13m、幅11mと、ゴシック建築が普及した時代の中でも最大規模の祭壇画として有名。
ちなみに、聖マリア教会には、塔の上からは時報のようにラッパが吹き鳴らされ、演奏中に終わるという習慣があります。これはラッパ吹きがモンゴル人来襲の時に危機を知らせようとラッパを吹いている途中で射殺されたという伝承があることから由来するもの。
ヤギェウォ大学
1364年、カジミェシュ3世により創建された大学。中央ヨーロッパで2番目に古い大学でした。ちなみに、地動説を説いたコペルニクスの出身校でもあります。
クラクフ歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
クラクフが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iv)
町並みと建築物が素晴らしいだけでなく、歴史地区は現在に至るまで中世の町並みを残しつつ発展していったという点。
世界遺産マニアの結論と感想
1978年に登録された記念すべき第1弾の世界遺産のひとつ。最初に登録されただけあって、クラクフが評価されたポイントは、中世から現代まで各時代の建築物が保存状態がよく、景観を壊さないように残されているという点。支配者が変わってもポーランド人の故郷的存在であるクラクフは、街に住む人々によって守られてきました。
ちなみに、クラクフはユダヤ人が多く住む街として有名で、市内各地で販売される名物的存在のオブヴァジャーネックフは、ベーグルの原型の一つでもあるとか。さらに、プレッツェルの原型とも言われるので、いろいろと元祖的な存在のようです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。