ギリシャの世界遺産「ピリッポイの考古遺跡」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(3), (4)
登録年2016年

ギリシャ北東部に位置するピリッポイの考古遺跡は、かつてヨーロッパとアジアを結んでいたエグナティア街道沿いにあった都市遺跡。ここは紀元前356年に古代マケドニア王のピリッポス2世によって設立され、やがて「小ローマ」と呼ばれるほどに繁栄しました。都市は城壁で囲まれて、劇場や神殿なども建造。そして、使徒パウロによって初期キリスト教世界の中心地となり、バシリカや教会の跡も残ります。

ここではピリッポイの考古遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ピリッポイについて詳しくなること間違いなし!

目次

ピリッポイの考古遺跡とは?

ピリッポイの考古遺跡
画像素材:shutterstock

ギリシャ北東部に位置するカヴァラ県に位置する城壁に囲まれた都市遺跡。ここは古代マケドニア王のピリッポス2世がこの地を征服すると、付近の金鉱の開発を目的にすると同時に軍事貿易の拠点として、紀元前356年に都市を設立。紀元前2世紀になると、アジアとヨーロッパを結ぶエグナティア街道が建設され、ここは交通の起点となりました。ローマ時代の紀元前42年にこの地で「フィリッピの戦い」が行われ、やがて初代ローマ皇帝となるオクタウィアヌスが勝利すると、皇帝の称号を入れた「コローニア・アウグスタ・ユリア・ピリッピネンシス」と改名され、数十年でローマ式の制度が導入されて「小ローマ」と呼ばれるほどに発展。

城壁で囲まれた都市は、門や劇場、神殿、テラスやフォーラム(広場)などの公共施設などが建造されていき、今でも遺構として残っています。ここは使徒パウロが1世紀に訪れると、キリスト教の最初期の中心地となりました。バシリカや教会の遺構も残っていて、これらは早期にキリスト教化されたということが分かるもの。しかし、都市は次第に衰退し、いつ放棄されたは不明ですが、16世紀には既に廃墟となっていたという記録が残ります。

ピリッポイの考古遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

ピリッポイの考古遺跡
画像素材:shutterstock

ピリッポイが評価されたのが、以下の点。

登録基準(iii)
ピリッポイは帝国の首都ローマとよく似た植民都市であり、それは都市設計や建築物にも見られ、ローマ帝国に編入された地方都市の例であり、遺跡に残る教会の遺構は初期キリスト教のこの地方への普及と発展を示すという点。

登録基準(iv)
ピリッポイの考古遺跡は、ローマ時代から初期キリスト教時代までの建築物の発展が見られ、フォーラム(広場)はローマ帝国東部の属州における公共施設の典型的な例であり、教会やバシリカなど、初期キリスト教の建築様式が見られるということ。

世界遺産マニアの結論と感想

ピリッポイの考古遺跡は、「小ローマ」とされるほどに繁栄し、その建築物や都市設計など、ローマ帝国東部の植民都市の典型的な例が見られる遺跡。初期キリスト教時代の教会やバシリカ跡なども残っているという点で評価されています。

ちなみに、ここは廃墟となりましたが、海岸沿いにある都市ネアポリスはかつてはピリッポイの港としての役割がありました。現在は「カヴァラ」と呼ばれ、こちらオスマン帝国の一部でもあったため、ギリシャではテッサニロキに次ぐ港湾都市として発展しました。一方、なぜか内陸のピリッポイは滅んでしまったという不思議。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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