登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (4) |
登録年 | 1993年 |
姫路城・西の丸は、江戸時代になって拡張したエリア。徳川家康の孫である千姫ともゆかりが深い化粧櫓があることでも有名です。ところで、西の丸はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは姫路城・西の丸がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、西の丸について詳しくなること間違いなし!
姫路城・西の丸とは?悲しき姫・千姫ゆかりの地
現在の姫路城が形成されたのは江戸時代。1600年に池田輝政が城主となった時に今も見られる天守閣や曲輪などが築かれたのですが、1617年に徳川家の旗本であった本多忠政が入城すると、徳川家康の孫である千姫のために、本丸の西側にある「鷺山(さぎやま)」を拡張し、西の丸が誕生しました。ここは本丸から西の位置にあったため「西の丸」と名付けられたもの。
化粧櫓
徳川家康の孫である千姫(1597〜1666年)が、大阪夏の陣(1615年)で大阪城から救出されると、1616年に本多忠政の嫡男・忠刻に輿入れし、1617年に姫路城に移封となった際に建てられた二重の櫓(やぐら)。ここは徳川家から千姫の化粧料として渡された10万石によって1618年に建造されたため「化粧櫓」と名付けられました。
ここは座敷部屋が3つに区分された奥御殿として利用されていたもの。ちなみに、化粧櫓と名付けられていますが、千姫は櫓に暮らしてはいません。
渡櫓(長局)
現在の西の丸に館は現存していませんが、渡櫓(わたりやぐら)と呼ばれる城壁の廊下は残っていて、ここからは鉄砲を打つために作られたスペースである狭間や石落としの仕組みなども見られます。城側は侍女たちの部屋になっていて、長い1棟を仕切った住まいである「長局(ながつぼね)」という機能を持っていました。
姫路城・西の丸はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
西の丸が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
姫路城は白漆喰を使用した外観に、複雑な構造の配置や屋根の重ね方も美しく、木造建築の傑作であるということ。
登録基準(iv)
日本の城郭建築の集大成であり、その建築技術をすべて保持しているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
西の丸は、江戸時代に拡張した部分で、館は残っていないのものの、渡櫓や化粧櫓など、当時の城郭建築の名残がよく残っているという点で評価されています。
ちなみに、千姫は豊臣秀頼との仲が良かったことでも有名ですが、忠刻とも仲がよく、二人の間には子供が二人も生まれました。しかし、忠刻は早くに亡くなり、長男は3歳で亡くなってしまい、家族運には恵まれませんでした。その後、江戸に戻ると、晩年は大奥にて顧問のような仕事を請け負って、弟である3代将軍の家光からも信頼された人物だったそうな。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。