「世界三大美人」の一人として有名なクレオパトラ。古代エジプトの女王として有名な人物ではありますが、その美貌ばかりに目がいきがちで、彼女がどういう人物だったかは割と知られていません。クレオパトラとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はクレオパトラがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、クレオパトラについて具体的に理解できること間違いなし!
クレオパトラ(7世)とはどんな人物?
彼女は何をした人物?

そもそも「クレオパトラ」といっても、その名前を持つ人物は実はたくさんいます。一般的に我々がイメージするのは「クレオパトラ7世(紀元前69年〜紀元前30年)」。彼女は絶世の美女というイメージがありますが、そもそもプトレマイオス朝(紀元前305年〜紀元前30年)のエジプトの王女であり、同王朝の最後のファラオ(息子と共同統治)にまでなった人物でもあります。
父であるプトレマイオス12世(紀元前117年 〜紀元前51年)は、当時のエジプトがローマの圧力をかけられ、国内が混乱していた時期に即位したため、政権は安定せず、一時的にローマに亡命したものの、最終的には娘であるクレオパトラ7世を含めた子どもたちに国を託しました。



クレオパトラは当時のローマの執政官であったカエサルや、その部下であるアントニウスと結婚をし、ローマの支配下にならないように奮闘するも、最終的にはアクティウムの海戦(紀元前31年)にて、カエサルの後継者オクタウィアヌス派に敗北すると、彼女は自殺を選び、その後のエジプトはローマの支配下に入ってしまいました。つまるところ、古代エジプトの最後のファラオであり、その歴史を終わらせてしまった人物でもあります。
なんと「弟」と結婚した?



古代エジプトでは、ファラオの血族は高貴とされていて、あくまでも継承の関係性を深めるということから、兄弟姉妹婚が行われることがしばしばありました(ただし、名目上の結婚だったという説も)。よって、彼女も弟であるプトレマイオス13世(紀元前63年〜紀元前47年)、プトレマイオス14世(紀元前59年頃〜紀元前44年)がいたために慣例に従い、結婚しました。
しかし、これは共同統治者としての即位であり、実際に彼女自身はカエサルの愛人となっていて、さらにはアントニウスにいたっては結婚をしています。後にプトレマイオス13世はカエサルに殺害、さらにプトレマイオス14世は15歳で死去しており、弟たちはほとんど政治に関わっておらず、名ばかりの統治者であり、クレオパトラ自身も兄弟であるのにもかかわらず、あまり愛情がなかった様子。
クレオパトラの性格は?



実際に彼女の性格というのは、当時の資料にはあまり残っておらず、なかなか掴めないことろですが、カエサルのローマの別荘にクレオパトラが呼ばれたころ、哲学者であり政治家でもあったキケロが会いに行った際に彼女の評価は…「傲慢で思い出したくもない」という手紙が残っていたくらいなので、一部とはいえ、かなり失礼な態度をとっていたのは間違いないでしょう。
ローマの歴史化プルタルコス(46年頃〜119年以降)の『対比列伝』では、数多くのギリシャ・ローマ時代の人物の伝記の中に、クレオパトラも記載されていて、その中では滅びゆくエジプトのために動いた人物であるものの、自己保身と愛のために動く「自己中心的人物」であると評価されてしまっています。
それもあり、後年では「ローマの男たちを誘惑して自分の地位を得ようとする、ずるかしこい人物」とされてしまったのでしょうね。
クレオパトラは本当に美人だった?



実はクレオパトラの姿は彫像や貨幣などに刻まれていて、その姿はある程度予測できます。しかし、これはあくまでも本人の姿をモチーフにしただけの記念碑的な姿であり、本来の顔立ちは分かりません。とはいえ、プトレマイオス朝は、マケドニア出身のアレクサンドロス3世(大王)が東方遠征した際に、その部下であった将軍プトレマイオス1世(紀元前367年〜紀元前282年)が開いた王朝です。よって、その子孫であるクレオパトラは当然マケドニアの血が流れていて、当時のマケドニアはギリシャの範囲内であったからほぼ「ギリシャ人」であったと言えるでしょう。
というのも、彼女自身の墓やミイラが発見されていないので、そのあたりははっきりとしてないのですが、妹であるアルシノエ4世(紀元前68年または67年〜紀元前41年)の遺骨はトルコのエフェソスで発見されていて、ギリシャ系とアフリカ系の混血であった可能性があることから、おそらくは彼女もギリシャ系の血は流れていたのでしょう。
その死因は?
コブラの毒による自殺が一般的な説だけど…



クレオパトラは、紀元前30年にオクタヴィアヌスに捕らえられると、彼に屈することはせずに死を選ぶこととなります。「贈答品のイチジクに忍ばせたコブラに身体を噛ませて死亡」したというのが通説であるものの、これは疑わしいところ。
最古の歴史記録としては、ローマの地理学者・歴史家・哲学者であるストラボン(紀元前64・63年〜紀元前24年頃)によると、クレオパトラはコブラに噛まれたか、毒を塗って自殺したと言及しています。というのも、歴史家のプルタルコスも当時の主治医は特に死因には触れてないとのことで、蛇の毒による死と紹介しているものの、道具を使って自殺したという他の説も引用したりと、既に当時からはっきりとしたことは分かっていませんでした。しかし、後にフレスコ画では、クレオパトラが毒蛇で自殺する様子が描かれている場面が多く描かれたことから、次第に通説になったのでしょう。
クレオパトラの最後の言葉



結局、死因もよく分かっていないので、当然彼女の最後の言葉も分かってはいません。というのもブルタルコスの記述によると、自殺した場所は分かっておらず、宮殿なのかも不明であり、オクタヴィアヌスから自殺を防止するように部下が見張っていたものの、部屋に籠もっている際に自殺したとされ、侍女たちも間に合わなかったとされます。
しかし、オクタヴィアヌスは手紙にてクレオパトラから「アントニウスの隣に埋葬してほしい」という願いを受けていたので、ある意味これが最後の言葉かもしれません。実際に彼女の願い通りにアントニウスとともに祀られましたが…その場所は現在でも不明です。
クレオパトラ(7世)にまつわる(?)世界遺産はこちら!
クレオパトラ・プール/パムッカレ温泉(アンティーク・プール)



トルコ西部の平野に突如と現れるパムッカレは石灰が石化して形成された鍾乳石の段丘が続くというエリア。ここには紀元前2世紀に築かれたヒエラポリスがあり、ローマ時代は温泉を中心とした、今で言えば「健康センター」として栄えました。
現在見られる「アンティーク・プール」は7世紀に地震によって大理石の柱廊が沈んで形成されたために、プールの中に石柱が見られるという珍しい温水プール。クレオパトラも泳いだと伝わっていることから「クレオパトラ・プール」とも呼ばれますが、これは歴史的な根拠はほぼありません。
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世界遺産マニアの結論と感想
クレオパトラは、単なる「美貌の女王」ではなく、戦略的な外交と政治手腕を駆使し、エジプトを存続させようとしました。しかし、彼女は知的な指導者であったものの、歴史の流れには逆らうことができず、最終的には自殺という道を選んでしまいます。実際はどのように自殺したかは不明なものの、その運命から後世の作家や画家たちは「悲劇の女王」として描きやすかったということもあり、テーマにしやすかった上に、古代エジプトには女性指導者があまりいないということもあり、近年のエジプトブームから人気が出てきた…といったところでしょうか。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。