秦の始皇帝とはどんな人物?その名前や歴史を含めて世界遺産マニアが解説

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秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)は、中国史上初めて天下統一を成し遂げた人物で、初代皇帝であることから「始皇帝」と名乗りました。暴君のイメージがある一方、法による中央集権国家を確立したとされていますが、秦の始皇帝とはどういった人物だったのでしょうか?

今回は秦の始皇帝がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、秦の始皇帝について具体的に理解できること間違いなし!

目次

秦の始皇帝とはどんな人物?その歴史を解説

始皇帝の先祖は?

秦の兵馬俑
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秦は建国者である非子(前905年〜前858年)が王を助けたことにより、その功績から西方に小さな領土を授かったことが建国のきっかけ。おもに西方の小国を合併して領土を広げ、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)には七雄の一つとなるほどの大国になりました。

始皇帝は秦の第5代・荘襄王(そうじょうおう、紀元前281年〜紀元247年)の子(異説あり)。荘襄王の本名(姓・諱)は嬴異人(えいいじん)と呼ばれていて、彼は秦の王子でした。

異人は既に大国であった秦の王子であったものの、彼は敵国であった趙(現在の中国・河北省を中心とした国)で人質であり、商人の呂不韋が彼に対して出資をすると、彼は先代の王の死とともに国へ戻り、荘襄王として即位。呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に子供を授かりました。それが始皇帝と呼ばれる人物となった嬴政です。

始皇帝とは称号であり、本名は「嬴政(えいせい)」

秦の始皇帝の彫像
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そもそも始皇帝というのはあくまでも称号であり、彼の本名は嬴政。「嬴」は秦の王族が代々受け継いだ姓でもありました。嬴政は紀元前246年、13歳で秦王に即位し、その後、丞相の呂不韋や多くの将軍の支えを受けて秦を強国にし、紀元前221年には中国を統一。

自らを「秦始皇帝(しんしこうてい)」と称しました。これは従来の「王」よりも強大な権威を示すために創られたもので、「中国史上初の皇帝」を意味します。現在では「始皇帝」と略されます。

始皇帝は何歳で天下統一した?

秦の兵馬俑
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紀元前259年、趙の首都・邯鄲(かんたん)に生まれます。しかし、父の異人は人質としての価値がなくなり、処刑されそうなところを秦へと脱出。政は母と二人で残され、追われる身となるも、異人が荘襄王として即位したため、10歳になった政は母ととともに秦の首都・咸陽へと送られました。しかし、荘襄王は即位3年で崩御し、紀元前246年に政は13歳で秦王として即位。幼少のため宰相の呂不韋(りょふい)が補佐しました。

紀元前238年に呂不韋は失脚してしまい、親政を開始。後に宰相となる李斯(りし)などの有能な家臣を登用し、法を重視する政策を用いました。そして、先代から強大な軍事力を持ち、紀元前236年からいよいよ統一戦争を開始。紀元前230年に韓、紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、紀元前221年に斉を滅ぼし、彼が39歳の時に中国を統一し、始皇帝と名乗ります。

始皇帝は暗殺されそうになった?

秦の始皇帝の彫像
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始皇帝は、厳格な統治を行ったため、敵を作ることが多く、少なくとも確認できるだけで、暗殺未遂は3度は発生しています。最も有名なのは、紀元前227年に発生した戦国の七雄の一つ燕の国に雇われた「荊軻(けいか)」という人物の暗殺未遂。

荊軻は燕の地図と裏切り者の首を持って、秦王(始皇帝)に臣従するふりをして、地図の中に剣を隠し、始皇帝に接近しました。当時の宮廷では自ら剣を持たない決まりがあったため、すぐに対応できなかったものの、始皇帝自ら剣を抜き反撃し、荊軻を斬ります。始皇帝は激怒し、燕へ総攻撃をし、荊軻の血縁者を殺害しただけでなく、彼の故郷の住民も虐殺されたほど怒り狂ったとされる大事件でした。

その他にも、後の漢の軍略家となった張良による暗殺未遂が発生し、張良は指名手配されるものの、彼は生き残っています。

始皇帝の性格は?どんな顔をしていたの?

秦の始皇帝のイメージ
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最近は『キングダム』の嬴政のイメージがあり、クールで理知的な人物を思い描く人もいるかと思いますが、始皇帝というと暴君というイメージがあります。これは次代の漢(紀元前206年〜8年、23年〜220年)における『漢書』といった書物によるもので、中国の王朝の歴史書は前王朝を批判的に書く傾向にあり、始皇帝もそのパターンであったと考えられています。

とはいえ、実際の始皇帝は、中国で最も古い歴史書を執筆した司馬遷の『史記』にも記載があり、疑り深い人物であった様子。そして、始皇帝は焚書坑儒を行い、当時の知識人を多く殺害したということでも知られますが、これは後に漢で儒教が盛んになってから目立って非難されたということもあり、始皇帝としては統一国家を形成するために行ったとも捉えられます。冷酷で厳格ではあったというのはどの文献でも変わりなく、戦争で降伏した敵国の王族や貴族を皆殺しにすることもあり、彼は自分の権力を脅かす者を徹底的に排除し、中央集権体制を作り上げたという背景も。

さらに、始皇帝の顔は鼻が高く尖っていて、眼は切れ長、声は獣のような恐ろしい人物であったとされています。とはいえ、始皇帝稜はまだ発掘されていないので、始皇帝の身長や体型については実際のところ分かっていません。

始皇帝の死因は?

秦の始皇帝陵
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始皇帝は統一後、神仙思想に染まりつつあり、不老不死の秘術を会得した方士(ほうし)が近づき、始皇帝は不老不死の薬を探すように命じた木簡も残っています。方士の中には、徐福(じょふく)という人物もいて、彼は「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と始皇帝に伝えると、探検を命じられ、3000人の若者と100の技術者、さらに財産などを持って航海に出るものの、結局は三神山には辿り告げず、日本で暮らしたという伝説があることでも有名。

結局、不老不死の薬は得ることができず、紀元前210年、49歳で始皇帝は病気となり、現在の河北省邢台市にある平台という場所で崩御します。死因は不明ですが、伝説では不死の効果を得るために水銀を服用していたという伝説も。息子である二世皇帝によって、咸陽へと運ばれ、驪山(りざん)の始皇帝陵へと葬られました。

始皇帝には子孫がいる?

秦の始皇帝のイメージ
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始皇帝には20人以上の子供がいたとされています。始皇帝の末子で「二世皇帝」となった胡亥(こがい)、さらに始皇帝の長男である扶蘇(ふそ)がいたものの、二人とも始皇帝の死後の混乱によって自害してしまったため、始皇帝の弟や息子ともされる子嬰(しえい)が継ぎました。しかし、彼は最終的に反乱軍の中核となった項羽(紀元前232年〜紀元前202年)によって、彼だけでなく、家族や血縁者は全員処刑されたとされています。

こういった背景もあり、始皇帝の直系の子孫は、ほぼ全滅した可能性が高いでしょう。とはいえ、中国では現在も「嬴」姓の人々が今でもわずかに存在していて、彼らは「秦の王族の子孫」と伝えられることもありますが、繋がりは不明です。古代の日本で渡来人には、秦の始皇帝の末裔とも記述されている秦氏がいて、そのルーツである弓月君(ゆづきのきみ)という人物もいますが、これも真実は不明。

キングダムにおける「始皇帝」は史実?主人公の信は本当にいたの?

秦の兵馬俑
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原泰久氏の漫画『キングダム』は、秦の大将軍を目指す信(後の李信)を中心とした人気歴史漫画。物語の冒頭、信は嬴政は若き日に出会うことから、もう一人の主人公といっても良い存在です。劇中の嬴政は暴君というよりも、カリスマ性のある若きリーダーといった人間味あふれるキャラクターとして描かれていて、「戦乱のない統一国家を作る」という強い理想を持っています。

それもそのはずで原氏は、研究を重ねるうちに既存の始皇帝のイメージから異なる見方をするようになっていたと語っていて、アニメ化にもなるほどの人気作であることから、今ではこちらの嬴政像のほうが彼のイメージになっているかもしれませんね。ちなみに、主人公の李信は実在の人物で歴史書の『史記』でも、大将軍としてその活躍が記されています。

始皇帝にまつわる世界遺産はこちら!

万里の長城/中国

八達嶺長城/万里の長城
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長城はもともと春秋時代(紀元前700〜紀元前403年)に建造が始まり、戦国時代(紀元前403〜紀元前220年)になると、防御壁として各地に長城が築かれます。そして、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が、各国が築いた長城を一つに繋げて、北に拠点を持つ遊牧民族・匈奴に備えるための防御壁にしたのが万里の長城の始まり。

しかし、この長城は現在のものではなく、現在よりも北に位置していたとされています。この時代の長城はほとんどの区間は高さ2m程度の城壁であり、馬や人が乗り越えるのが難しい程度の簡易的な長城でした。

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泰山/中国

泰山
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中国東部・山東省の泰安市にある聖山。標高は1545mの泰山は、中国の五岳の一つであり、冥界の最高神である「東岳大帝」を祀るということで道教では最も信仰を集める場所でもあります。死後は魂がこの山に帰ると信じられているもの。その自然景観からここは中国で最も美しい景勝地の一つです。

『史記』によると、秦の始皇帝が中国全土を統一すると、始皇帝はここで山頂で天に対して祈り、山麓で地を祀ったという「封禅(ほうぜん)」を行ったとされます。

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秦の始皇帝陵/中国

秦の始皇帝陵
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中国中部・陝西省の省都・西安から北東へ30kmに位置する驪山(りざん)の北側に広がるのが始皇帝陵。始皇帝陵は、彼が在位中の紀元前246年に建造が始められ、それは40年近くも続き、紀元前208年に完成。

陵墓は截頭方錐型で高さは76mもあり、広さは東西345m、南北350m。その陵墓を囲むように2つの城壁で囲まれていて、約51mの高さまでは残存。

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世界遺産マニアの結論と感想

始皇帝は史上初の皇帝であったものの、残虐な面もあり、中国の歴代の歴史家からはあまり良い評価を受けているとは言い難い存在。しかし、近年は見直されていて、最近は漫画『キングダム』などもあり、暴君というよりも強い決断力を持った人間味のあるリーダー像もイメージされつつあります。そう思うと、生まれるのが早すぎる人物だったのかもしれませんね。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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