ウズベキスタンの世界遺産「ブハラ歴史地区」とは?世界遺産マニアが解説

  • URLをコピーしました!
登録区分文化遺産
登録基準(2), (4), (6)
登録年1993年

ウズベキスタン南部にあるブハラは、かつてシルクロードの要衝地として栄え、中世に築かれた中央アジアのオアシス都市がそのまま残ったもの。中央アジア最古のイスラム建築であるイスマイール廟など、歴史的な町並みが現在でも見られます。

ここでは、ブハラ歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ブハラについて詳しくなること間違いなし!

目次

ブハラ歴史地区とは?

アルク(城塞)/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

ブハラはウズベキスタン南部にあるブハラ州の州都であり、2000年以上もの歴史を誇る町。ここには9〜17世紀にかけて建造されたイスラム建築が残り、保存状態は良好です。

ここは1世紀ころからシルクロードの交易で繁栄し、中央アジアにおける経済都市であり、宗教の中心地でもありました。8世紀にはイスラム化し、9〜10世紀に栄えた中央アジア最古のイスラム王朝であるサーマーン朝の首都として文化都市としても発展。

ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

ブハラは13世紀にチンギス・ハン、14世紀にティムールに侵攻され、町は徹底的に破壊。復興はするものの、政治の中心は近くのオアシス都市であるサマルカンドに譲ることになります。

16世紀になると、ウズベク人によってシャイバーン朝が成立すると、ブハラは首都となり、再び繁栄を取り戻します。その頃に再開発が進められ、城塞が再建され、モスクやマドラサ(神学校)、商店街などが造られました。19世紀にはロシアによって征服されますが、旧市街は破壊されず、イスラム建築や歴史的な町並みはそのまま残されたのです。

登録されている主な構成遺産

イスマーイール・サマニ廟

イスマーイール・サマニ廟/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

旧市街から少し西に離れた位置にある、9〜10世紀にかけて建造された、中央アジア最古のイスラム建築。ここはブハラを支配したサーマーン朝のアミール・イスマイール・サマ二によって建造された霊廟で、彼の父のために建造されたもの。レンガを積み上げた半球ドーム型の建造物で、サーマーン朝の王族の霊廟として使用されました。

カラーン・ミナレット

カラーン・ミナレット/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

高さ46mのブハラでも最大級のミナレット。カラーンはタジク語で「大きい」という意味を持ち、レンガを円筒状に築かれた姿は美しく、ブハラのシンボル的存在。これは12世紀にブハラを支配していたカラ・ハン朝のアミールであるアルスラン・ハンによって築かれたもの。

もともとは灯台のような役割をしており、塔の上には明かりが灯され、キャラバン隊が遠くからでもブハラの町を見つけるために役立ったとされています。何度か破壊されるも、その度に修復されてきました。

その美しい姿はチンギス・ハンですら破壊しないように部下に命令したという伝説が残るほど。19世紀後半まで、塔の上から罪人を落とすという刑が行われていたため、「死の塔」と呼ばれていました。

チャハル・ミナール

チャハル・ミナール/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

「4本のミナレット」という意味で、旧市街の東側に位置するマドラサ(神学校)の門番小屋として建造されたもの。建造は1807年と意外と新しく、4つの青いタイルで施された屋根を持つミナレットが特徴的。

アルク(城塞)

アルク(城塞)/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

シャイバーン朝にブハラ・ハンの居城として使用されたもの。起源は定かではありませんが、ここがブハラの発祥地であり、いつの時代も城が築かれていた場所でもあります。しかし、モンゴル軍を含め、何度も外敵に破壊され、現在見られるのは18世紀のもの。城内にはハンの邸宅や謁見の間、モスクなどが残っていて、今でも見学できます。

ブハラ歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

カラーン・ミナレット/ブハラ歴史地区
画像素材:shutterstock

ブハラが評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
ブハラの都市計画と建築様式は中央アジアの各都市に大きな影響を与えたという点。

登録基準(iv)
ブハラは、現在でも旧市街の保存状態が良く、中央アジアでも他に例を見ない都市であるということ。

登録基準(vi)
9〜16世紀までブハラにはモスクやマドラサが多く点在し、イスラム神学の中心地であったという点。

世界遺産マニアの結論と感想

ブハラの旧市街は他の中央アジアのオアシス都市の中でも、特に保存状態が良く、当時の都市計画や建築様式がよく分かるという点でも評価。そして、交易で栄えたブハラはイスラム神学の中心地ともなり、建築様式は中央アジアの各都市に影響を与えているというのもポイント。

ちなみに、破壊の限りを尽くしたチンギス・ハンはなぜカラーン・モスクを破壊しなかったか?それにはもう一つエピソードがあり…

チンギス・ハンがカラーン・モスクに近づくと、塔の上を見上げて帽子を落とししまい、それを拾おうとすると、「私に頭を下げさせた!」という点で感激したという伝承が残っているのです。ある意味、チンギス・ハンに頭を下げさせたのは、カラーン・モスクだけだったかもしれませんね。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

目次