サラディン(1137年または1138年〜1193年)は、シリアからエジプト、アラビア半島などを支配したアイユーブ朝(1169〜1250年)の創設者であり、第3回十字軍を破ったことからイスラム世界では英雄となりました。そんなサラディンとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はサラディン(サラーフッディーン)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、サラディンについて具体的に理解できること間違いなし!
サラディン(サラーフッディーン)とはどんな人物?
サラディンは尊称(ラカブ)であり、本名はユースフ

本名はユースフ・イブン・アイユーブで、これは「アイユーブの息子・ユースフ」という意味。彼はイラク北部の町ティクリートで生まれ、やがて一家は現在のシリアへと移住し、叔父のシール・クーフに仕えると、イラク北部とシリアを支配していたザンギー朝の君主であるヌールッディーンに気に入られました。1164年にサラディンは叔父シール・クーフと共にエジプト遠征に参加し、1169年には当時のファーティマ朝の宰相に任命され、エジプトの実質的な支配者となり、これがアイユーブ朝の始まりとされています。
1174年に君主であるヌールッディーンが死去。サラディンはヌールッディーンの遺児を後継者と認めつつ、権力を掌握。領土はエジプトやシリア、イラク、イエメンなどを含めて、イスラム勢力を統一しました。
十字軍との戦い



当時のエルサレムは第一次十字軍によって建国された「エルサレム王国」というキリスト教勢力によって支配されていたものの、ヨーロッパ各地の王族による連合であったために不安定な状態でもありました。サラディンは1187年に現在のイスラエル北部でヒッティーンの戦いで十字軍の主力を壊滅させると、聖地エルサレムを奪還。とはいえ、キリスト教徒を虐殺せず、住民の安全を保証し、身代金なしで解放することもありました。



しかし、イングランド王リチャード1世(獅子心王)、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)など、ヨーロッパの強力な王たちが十字軍を組織(第3回十字軍)。1189年に十字軍がアッコーを包囲すると、サラディンはリチャード1世と対峙し、名勝負を繰り広げます。
リチャードはサラディンに敗北しますが、その紳士的な対応に彼を尊敬するようになり、1192年に和平を結び、エルサレムはイスラム勢力の支配下に留まるものの、キリスト教徒の巡礼は許可されました。そして、1193年にダマスカスで死去。
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シダテル/エジプト



カイロの南東部にあるムカッタムの丘の上に築かれた城塞。ここは12世紀にサラディンによって築かれ、その後、19世紀まで700年近く宮殿が置かれていました。19世紀前半にはシタデルの古い建物が壊され、新しい建造物が並び、現在見られるものはこの時代のもの。敷地内には4つのモスクが点在し、かつての宮殿は博物館として公開されています。
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カルアト・サラーフ・アッディーン/シリア



シリア北西部のラタキア県に位置する要塞。ここは10世紀に当時この地を治めていたビザンツ帝国によって、丘の上にあった城壁を要塞にされたもの。12世紀になると、十字軍によって築かれたアンティオキア公国が現在見られる城へと拡張工事したものの、サラディンによって陥落。
このことから「サラディンの要塞」と名付けられ、14世紀まではマムルーク朝によって利用されましたが、後に廃城となりました。
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サラーフッディーン廟/シリア



シリアの首都ダマスカスは国内でも南西部にあり、ここはエジプトとメソポタミア、地中海世界を結ぶ都市で、紀元前8000年〜1万年には既に集落があったとされています。
サラディンはここを首都として、街に新たな宗教施設を築きました。最期はここで亡くなったことから今でも彼の廟には多くの人が集まります。
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世界遺産マニアの結論と感想
サラディンは「信教の高潔(サラーフッディーン)」という意味だけに、イスラム教の英雄ではあるものの、彼の紳士的なふるまいから欧米でもその名が広がり、「サラディン」と呼ばれるようになりました。彼は軍事的英雄ではなく、その寛容さも知られるようになったのです。イスラム世界を統一し、十字軍に対抗するだけでなく、キリスト教世界との平和共存の可能性を示したという点でも、革新的なリーダーでもありました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。