ミケランジェロ・ブオナローティとはどんな人物?世界遺産マニアが解説

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ミケランジェロ・ブオナローティ(1475〜1564年)は、ルネサンスを代表する芸術家で、彼は彫刻を得意としたものの、絵画や建築の分野でも傑作を残したことから「万能の人」と呼ばれます。ミケランジェロとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はミケランジェロ・ブオナローティがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ミケランジェロについて具体的に理解できること間違いなし!

目次

ミケランジェロ・ブオナローティとはどんな人物?その生涯は?

メディチ家に才能を見出される

画像素材:shutterstock

1475年にイタリア中部のトスカーナ地方のカプレーゼで生まれ、13歳で画家ドメニコ・ギルランダイオの工房で絵画を学ぶほどに才能がありました。1489年にフィレンツェのメディチ家に見出され、最大の権力者ロレンツォ・デ・メディチの宮廷で学び、ここで彫刻に触れ、芸術の基礎を築きます。

しかし、当時のフィレンツェの政情は不安定でメディチ家が追放されると、1496年にローマへ移住し、最初の大作『バッカス』を制作します。

『ピエタ』と『ダヴィデ像』、そしてシスティーナ礼拝堂の天井画

『ピエタ』/バチカン市国
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1498年には教皇庁のフランス大使から依頼があり、サン・ピエトロ大聖堂の彫刻制作を依頼されました。そして、聖母マリアが亡きキリストを抱く姿である『ピエタ』を制作し、これは若きミケランジェロの代表作に。

そして、1499年から1501年にフィレンツェへと戻ると、1504年にはヴェッキオ宮殿前の広場に設置する像として『ダビデ像』を制作。これはフィレンツェの自主性を表すシンボルとなりました。『ダビデ像』も彼の傑作として有名です。

1505年に再びローマへと戻ると、教皇として選出したばかりのユリウス2世の霊廟を依頼されるも、その途中で約4年かけてシスティーナ礼拝堂の天井画を描きました。これは旧約聖書の『創世記』の9つのエピソードを含めて、300人以上の人物が描かれているというもの。天井画はルネサンス絵画の頂点とされています。

晩年と建築物

『最後の審判』/バチカン市国
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1530年半ばにローマに移住すると、以降はフィレンツェには戻ることがなく、彼はサン・ピエトロ大聖堂のシスティーナ礼拝堂の祭壇画である『最後の晩餐』に取り掛かります。これは1536〜1541年の数年にかけて制作。キリストが審判を下す場面を壮大なスケールで表現していて、それぞれの人物が力強く、天国と地獄の対比が劇的に描かれた大作です。

彼の晩年は、サン・ピエトロ大聖堂の設計を引き継ぎ、ドーム部分の設計を手がけます。彼の設計したドームは、のちのバロック建築に影響を与えることになり、革新的なものでした。しかし、完成を見ることはなく、1564年に88歳で死去。

失明してしまった?

システィーナ礼拝堂

よく「システィーナ礼拝堂の天井画を描いてミケランジェロは失明した」というエピソードがありますが、これは間違い。天井画ということもあり、長時間の作業で首を後ろに反らしたことから、目に塗料の粒子が入り、目に大きな負担がかかった可能性があります。しかし、これは30代ころの話であり、その後も作品を作り続けているということもあるため、完全な失明はしていないという可能性が高いでしょう。

仮に目が悪くなったとしても、少なくとも『最後の審判』やサン・ピエトロ大聖堂の設計などの仕事は続けていて、大聖堂のスケッチも発見されていることから、作業ができないほどではないと考えられています。

ミケランジェロの性格は?

ミケランジェロの肖像画
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ミケランジェロはルネサンスにおいてトップクラスの才能を誇る一方、不思議な性格の持ち主であり、一言で言うと「変わった人」。豪華な暮らしには興味がなく、最低限の食事と粗末な衣服でひたすら芸術に没頭し、服や靴もほとんど変えることがなく、食事や睡眠も忘れてしまっているという証言があったほど。

しかし、芸術に関しては情熱的でクライアントとも口論になるほどで、同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチに対しては敵対心が強かったということも分かっています。弟子はいたものの、それほど人付き合いが得意なほうではなかった様子。そして、彼の恋愛に対してはほとんどエピソードがないのですが、60代になった時に15歳年下の未亡人、ヴィットリア・コロンナに対しては大きな愛情を抱いていた様子で、詩を通じて仲を深めていたようです。

ミケランジェロ・ブオナローティにまつわる世界遺産はこちら!

ヴェッキオ宮殿/イタリア

500人大広間/ヴェッキオ宮殿
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フィレンツェのシニョーリア広場に位置する宮殿。ここはまず14世紀の始めに政庁舎として利用され、16世紀半にはフィレンツェの名門・メディチ家のコジモ1世(1519〜1574年)はここを住居としました。

宮殿前のシニョーリア広場にはミケランジェロの傑作である『ダビデ像』があったことで有名で、これは巨大な大理石から像を削り出したというもの(現在はアカデミア美術館で展示)

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サン・ピエトロ大聖堂/イタリア

サン・ピエトロ大聖堂/バチカン市国
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サン・ピエトロは、「聖ペテロ」という意味で、使徒ペテロが殉教した墓の上に建つとされています。大聖堂の面積は2万2000平方kmで世界最大規模のキリスト教の大聖堂。

最初はドナト・ブラマンテが主任建築家となるものの、資金不足と技術的な問題があり、1514年に死去。その後、ラファエロ・サンティを起用しましたが、彼もすぐに1520年に亡くなりました。最終的にミケランジェロ・ブオナローティによって建設計画が引き継がれ、ようやく完成したのは1626年。

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システィーナ礼拝堂/イタリア

システィーナ礼拝堂/バチカン市国
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バチカン宮殿にある礼拝堂で、現在はバチカン美術館の一部となっているもの。ローマ教皇を選出するコンクラーヴェが開催される場所としても有名です。

ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノ、ミケランジェロなどの、ルネサンスの芸術家によってフレスコ画が描かれました。特に1508〜1512年に描かれた天井画はミケランジェロの代表的な作品。これは旧約聖書の『創世記』をテーマにしていて、特に祭壇裏の『最後の審判』はあまりにも有名。

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世界遺産マニアの結論と感想

ミケランジェロは「彫刻家」として多くの彫刻を残しましたが、その一方、彼の才能はそれだけに留まらず、絵画や建築の分野でも傑出した才能を発揮しました。現在でもルネサンス三大巨匠と称され、彼の作品は世界中の人々を魅了し続けています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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