クリストファー・コロンブスとはどんな人物?世界遺産マニアが解説

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クリストファー・コロンブス(1451年頃〜1506年)は、一般的にはイタリアのジェノヴァ出身の探検家で、カナダでランス・オ・メドーが発見されるまでは、ヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸の海域へと到達した人物とされています。クリストファー・コロンブスとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はクリストファー・コロンブスがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、クリストファー・コロンブスについて具体的に理解できること間違いなし!

目次

クリストファー・コロンブスとはどんな人物?何をしたの?

コロンブスはどこの国出身?名前の意味とは?

コロンブスの彫像
画像素材:shutterstock

コロンブスは一般的に1451年頃、現在のイタリア・ジェノヴァ共和国で生まれたとされています。彼の前半生についてはあまりよく分かっていないものの、若い頃から航海に興味を持ち、父親の仕事を手伝って地中海で航海を重ねたと推測。

彼の名前はイタリア語では、正しくは「クリストーフォロ・コロンボ」でありましたが、後にスペインに移り住んだために「クリストバル・コロン」と名を変えていて、彼自身は「クリストバル・コロン」と名乗っていたとされています。ちなみにコロンブスというのは、ラテン語で「コルンバ(columba)」という意味で、これは「鳩」を意味するもの。

なぜインドへ行くのに「大西洋」を渡ろうとしたのか?

コロン数の航海
画像素材:shutterstock

彼は1477年以降にポルトガルのリスボンへと移り住み、弟とともに地図を制作しながら、航海にも加わっていたとされています。いつころから大西洋を渡ってインドの航路を見つけようとしたかは定かではありません。15世紀のヨーロッパでは、インドとの交易が重要視されていたものの、当時の中東を支配するオスマン帝国により、地中海経由の陸路での取引が困難になり、新たな海路の開拓が求められていました。

実は彼の航海日誌から新大陸へ向かう前にアフリカ西岸あたりには行っていたと考えられ、当時のポルトガルはアフリカ沿岸を迂回する「喜望峰ルート」を進めていましたが、コロンブスは「西へ行けばアジアに到達できる」と考えていました。

1回目の航海と西インド諸島への到達

コロンブスの到達したイメージ
画像素材:shutterstock

コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に支援を求め、拒否されると、今度はスペインのイサベル1世(カスティーリャ女王)とフェルナンド2世(アラゴン王)に計画を持ち込み、最終的に支援を受けることに成功しました。1492年10月ににコロンブスは3隻の船でスペインを出発すると、現在のバハマ諸島のサン・サルバドル島へと到達。

その後、キューバ島やイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へと航海し、イスパニョーラ島に入植地を作りました。そして、年が明けて1493年3月、コロンブスはスペインに帰還し、盛大な式典が開かれ、彼は発見地の総督職を得ることに。

新大陸の「発見」と総督の地位の剥奪

首座大司教座聖堂前の広場/サントドミンゴの植民都市
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コロンブスは合計4回の航海を行うものの、その目的は先住民を奴隷化と黄金の獲得としていたために、各地で先住民を虐殺したため、反乱が発生してしまいます。

第2回航海(1493〜1496年)では、世界遺産にも登録されているサントドミンゴにスペイン初の植民地を形成。第3回航海(1498〜1500年)では南アメリカ大陸(現在のベネズエラ)に到達しましたが、サンドドミンゴで反乱が発生し、彼は1500年にスペインから派遣された査察官によって逮捕され、本国へと送還。すべての地位を剥奪されてしまいます。

不遇の晩年と死因

セビリアの大聖堂
画像素材:shutterstock

第3回の航海でスペイン王室から信頼を失ってしまったものの、第4回航海(1502〜1504年)へと出発。これは彼の最後の航海となり、今回は中米に到達するも、何も成果を上げられずに帰還してしまいます。

スペイン帰国後、不遇の晩年を過ごし、1506年にスペインのバリャドリッドで死去(推定55歳)。病気が原因で死亡したとされ、彼は晩年、関節炎のような病気で苦しんでいて相当身体は弱っていたとされています。その遺骨はスペインのセビリアの大聖堂に納められていたものの、1542年にサントドミンゴの大聖堂に移されました。

コロンブスは「侵略者」なのか? 本当の評価は?

コロンブスの彫像
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そもそもコロンブスの航海の目的は、西インド航路の開拓であり、そこで先住民たちを出会い、勝手に「インド人(インディアン)」と名付け、死ぬまで自分が発見したのがインドであり、「新大陸」だとは認識していませんでした。しかし、現在の世界の認識では、このエリアはアメリカ大陸であり、アメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512年)は現在のアメリカ大陸を探検して、ここはインドではなく、「新大陸」であるということが分かり、後年に彼の名前から「アメリカ(アメリゴのラテン語名の女性系)」と名付けられてしまいます。

さらには、2回目の航海以降は「先住民の奴隷化」も目的としていて、各地で虐殺を続け、さらには原住民に黄金探しを課して、スペイン人が運び込んだ疫病によって多くの住民が死亡したとされています。よって、彼は原住民からすれば、十分な「侵略者」であり、彼らに対して教育や福祉も全く行っておらず、その点でも尊敬されている人物とは言い難いでしょうね。つまり、「発見者」でもなく、「建国者」ですらない…それもあって、現在のアメリカ合衆国でも人気は高くありません。

コロンブスの卵とは?

コロンブスの卵のイメージ
画像素材: Wikimedia Commons

あくまでも逸話ですが、新大陸発見後、貴族たちはコロンブスの功績を軽視し、「そんな航海は誰にでもできた」と言われてしまいます。コロンブスは卵を取り出し、「この卵を誰か立てられるか?」と問いかけ、貴族たちはどの方向に置いても卵は転がってしまい、立てることができません。そこでコロンブスは卵の端を軽く潰し、平らにして立てました。それを見た貴族たちは「そんなの誰でもできる」と言いましたが、コロンブスは「最初にやることが大事なのだ」と答えたというエピソード。

実際はイタリアの建築家「フィリッポ・ブルネレスキ(1377〜1446年)」によるものだとされていますが、この表現は画期的なアイデアや発明が、一見すると単純に見えるものの、実際にはそれを最初に思いつき、実行することが難しい、という状況で使われます。

クリストファー・コロンブスにまつわる世界遺産はこちら!

セビリアの大聖堂/スペイン

セビリアの大聖堂
画像素材:shutterstock

スペイン南西部のアンダルシア州の州都であるセビリア。ここは12世紀にモスクが建造されたものの、レコンキスタにより、13世紀にゴシック様式の大聖堂に改築されました。

ここは五廊式(身廊の両側に2つずつ通路があるもの)の構造で、現在でもスペイン最大級の大聖堂。かつてはクリストファー・コロンブスの墓があったことで知られます。しかし、1542年にドミニカ共和国のサントドミンゴへと移されました。

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サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂/ドミニカ共和国

サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂/サントドミンゴの植民都市
画像素材:shutterstock

西インド諸島は、1492年にクリストファー・コロンブスがたどり着いた場所で、1498年に現在のイスパニョーラ島の南海岸に植民都市を建設されました。サントドミンゴは南北アメリカ初の植民都市で、スペインの拠点として活躍。

サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂は1541年に建造された南北アメリカ大陸初のカトリック教会の大聖堂。ゴシック様式とルネサンス様式を組み合わせたもの。コロンブスの遺体はセビリアの修道院に納められていましたが、1542年にサントドミンゴの大聖堂に移されました。1992年にはコロンブス記念灯台に棺は移されたものの、長らくコロンブスが埋葬されているとして有名だった場所。

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世界遺産マニアの結論と感想

クリストファー・コロンブスは1492年にヨーロッパの白人として初めて大西洋を横断したのですが、後年は既に北欧のヴァイキングがそれ以前に往来していたことも分かり、探検家としてはその功績が奪われてしまった悲しい人物でもあります。彼の航海は、原住民の扱いなどには大いに問題があったものの、ヨーロッパとアメリカ大陸との接触を促し、歴史を大きく変える転換点となったという点では偉大とは言えるでしょう。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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