ヘンリー8世(1491〜1547年)はテューダー朝の王で、教養もあり、国民にも人気の高い人物でした。その一方、6度の結婚やイングランド国教会の創設など…何かと問題のある人物でもあります。ヘンリー8世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はヘンリー8世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ヘンリー8世について具体的に理解できること間違いなし!
ヘンリー8世とはどんな人物?
即位と修道院解散

ヘンリー8世は1491年にイングランド王ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの次男として生まれました。彼の兄アーサー・テューダーが王位継承者として育てられましたが、1502年にアーサーが突然亡くなり、1509年に父ヘンリー7世が死去すると、わずか17歳で王に即位。
彼は大陸に関して野心を懐き、フランスや神聖ローマ帝国(現在のドイツやオーストラリア、チェコなど)との戦争を繰り返し、イングランドの軍事力を強化。海軍の発展にも力を入れ、イギリスが海洋国家へと進む基盤を築きました。
離婚と英国国教会の設立



ヘンリー8世は生涯で王妃を6人も迎えましたが、その中でも最も有名なのは最初の妃キャサリン・オブ・アラゴン(1487〜1536年)との離婚問題。ヘンリーは男子の後継者を求め、キャサリンとの結婚を無効にしようとしましたが、カトリック(ローマ教皇)はこれを認めませんでした。
ローマ教皇の権威を拒否し、自らをイングランド国教会の最高首長とすることでカトリック教会から離脱、国王至上法(1534年)によって、国王が教会の首長となる「英国国教会」が成立。これがイギリス宗教改革の始まりとなりました。
晩年と死因



戦争を続けるためにヘンリー8世は、カトリック教会の持つ財産を没収し、多くの修道院を解散させました。これにより王室の財政を強化しましたが、カトリック勢力との対立が深まってしまいます。そして、彼は多くの廷臣を処刑。
1536年に馬上槍試合で落馬してしまい、その後、後遺症に苦しみます。さらに怪我をしてからは肥満にもに苦しみました。結局、1547年に55歳で死去。死因は不明なものの、肥満によって太りすぎていたことは明白なため、糖尿病であったという可能性もあります。王位は息子エドワード6世(3番目の妻、ジェーン・シーモアの息子)が継ぎました。
ヘンリー8世の歴代の妻たち



1人目:キャサリン・オブ・アラゴン(1509〜1533年)
スペイン王女で、もともと兄アーサーの婚約者でもありました。一人娘(メアリー1世)を産むものの、男子を授からなかったため、ヘンリーは結婚を無効にしようとするも、ローマ教皇が認めず、離婚問題が宗教改革(イングランド国教会創設)へとつながってしまいます。
2人目:アン・ブーリン(1533〜1536年)
王妃キャサリンとの離婚を強行するため、イングランド国教会を創設。後のエリザベス1世を産みますが、男子を産めず、彼女の一族は政治にも介入していたため、姦通罪や近親相姦罪といった罪で処刑されてしまいます。
3人目:ジェーン・シーモア(1536年〜1537年)
アン・ブーリンの侍女であり、アンの処刑日の翌日に婚約。待望の男子(エドワード6世)を出産するも、出産後に急死してしまいます。ヘンリーは嘆き悲しんたとされています。
4人目:アン・オブ・クレーヴズ(1540年)
ベルク公国の公女であったアン・オブ・クレーヴズは、肖像画が美しかったため、ヘンリー8世は気に入ったものの、実際に会うとヘンリーは彼女を「醜い」と感じ、すぐに離婚してしまいました。
5人目: キャサリン・ハワード(1540〜1542もしくは1543年)
アン・ブーリンの親戚であり侍女で美貌の持ち主。しかし、結婚前に婚約し、性的関係を持っていたとされるフランシス・デレハムを秘書として雇い、その後、不貞が発覚。処刑されてしまいます。
6人目:キャサリン・パー(1543〜1547年)
知識人であり、ヘンリーの死まで添い遂げた人物。宗教改革を支持し、王の子供たちの教育に尽力しました。エドワード6世の戴冠式を見届けると宮廷を退出。
ヘンリー8世にまつわる世界遺産はこちら!
ロンドン塔/イギリス



イギリスの首都ロンドンのイーストエンドに位置するロンドン塔は、現在の英国王室のルーツであるノルマン朝のウィリアム1世によって、ロンドンの玄関であると同時に首都を防衛する要塞として建造されたもの。
17世紀にはヘンリー8世により王室の宝石なども保管され、現在も「ジュエル・ハウス」には偉大なアフリカの星と呼ばれる、530カラットのダイヤモンドも置かれています。
詳細はこちら↓



ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園/イギリス



イングランド北部にあるノース・ヨークシャー州にあるスタッドリー王立公園。ここは12世紀に建造されたファウンテンズ修道院があり、現在は廃墟となっていますが、かつてはヨーロッパでも最大規模のシトー会の修道院でした。
しかし、16世紀のヘンリー8世の修道院解散令によって廃墟となってしまい、その後、近くにエリザベス朝様式のファウンテンズ・ホールが建造。18世紀になると、廃墟跡には美しい風景式庭園が築かれました。
詳細はこちら↓



世界遺産マニアの結論と感想
ヘンリー8世は、英国国教会の成立させ、王権の強化をした人物で、修道院の解散によって土地の分配と貴族の力の増大し、海軍を発展させたりと、イギリスの海洋国家の基盤を作った人物でもあります。彼の離婚はローマ教皇から破門を言い渡されるほどに問題があったものの、これは当時の情勢を考えると、女王では不安定のため、男子が王となり、強固な国家を維持するために行ったとされています。
とはいえ、アン・オブ・クレーヴズは明らかに「容姿」で離婚を決めた感はあるので…そのあたりも踏まえると、離婚の「言い訳」な気もしますが。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。