フランシスコ・ザビエルとはどんな人物?その本名を含めて世界遺産マニアが解説

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フランシスコ・ザビエル(1506〜1552年)は、イエズス会の宣教師であり、日本で初めてキリスト教を伝えた人物。日本人にとっては教科書ではおなじみですが、フランシスコ・ザビエルとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はフランシスコ・ザビエルがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フランシスコ・ザビエルについて具体的に理解できること間違いなし!
※この記事では彼の名前を日本における通称「ザビエル」で統一しています

目次

フランシスコ・ザビエルとはどんな人物?

本名と出身地

ハビエル城
画像素材:shutterstock

フランシスコ・ザビエルは1506年にナバラ王国(現在のスペイン北部)のハビエル城で生まれました。そもそも「ザビエル」というのは日本における通称であり、彼の出身地で話されているバスク語では「Etxeberri(エチュベリ=「新しい家」という意味)」の訛りから当時のカスティーリャ語で「Xavier(シャビエル)」へと派生し、現代スペイン語では「Javier(ハビエル)」となっています。ザビエルと呼ぶのは日本語だけで「フランシスコ・デ・シャビエル/ハビエル」というのが一般的。

彼の家族は貴族で、父フアン・デ・ハッソはナバラ王国の高官でした。しかし、ナバラ王国は1512年にスペイン(カスティーリャ王国とアラゴン王国)に併合され、一族は没落しました。

イエズス会の立ち上げとインドへの布教

ザビエルの彫像
画像素材:写真AC

1525年にザビエルはパリ大学に入学。ここで後にイエズス会の創設者となるイグナチオ・デ・ロヨラと出会います。1534年にモンマルトルの聖堂でイグナチオと6人の仲間と共に生涯を神への誓いを立て、イエズス会を創立。

イエズス会が正式にローマ教皇に承認されると、ポルトガル王ジョアン3世は「インドでの宣教」を依頼。1542年にインドのゴアに到着し、インド各地で布教を開始しました。1547年に鹿児島出身の武士ヤジロウと出会い、ザビエルに日本で布教するように進めました。

日本への布教

平戸
画像素材:写真AC

1549年にザビエルはマラッカを出発し、現在の鹿児島県に上陸。大名の島津貴久に布教の許可を得て、キリスト教を広めます。京都で天皇や将軍への謁見を試みるものの、献上の品がないため失敗。その後、山口へ移動し、大名の大内義隆から布教の許可を得ることができ、さらに豊後国(現在の大分県)でも布教を行いました。

彼は日本人の教養と知的好奇心の高さに驚き、非常に評価をしていました。彼の時代はそれほど多くはありませんでしたが、次第にキリスト教を受け入れた者が増え、後の「キリシタン大名」の出現につながっていきます。

ザビエルの死因は?

ボン・ジェズス・バシリカ(ボム・ジェズ教会)
画像素材:shutterstock

日本での布教が一段落したザビエルは、1551年にインドのゴアへ期間。今度は中国で布教するために航海に出発し、現在の中国南方の沿岸部にある上川島に到着します。当時の中国は明王朝の鎖国政策により、外国人の上陸が厳しく制限されていました。交渉が難航するなか、ザビエルは病に倒れ、46歳で死去。死因は公式には記録されていません。

遺体は一度、マレーシアのマラッカに埋葬された後、ゴアに移され、今はボン・ジェズス・バシリカ(ボム・ジェズ教会)に安置されています。後にカトリック教会から聖人として列聖され、「東洋の使徒」と称されました。

ザビエルは鉄砲伝来の種子島にも訪れた?

画像素材:写真AC

1543年に種子島に漂着したポルトガル人らによって日本に初めて鉄砲が伝えられたというのは非常に有名ですね。ここは良質の砂鉄がとれることから製鉄が盛んであり、さらには技術者も住んでいたことから、鉄砲の製造が発展する土台があったのです。それもあり、島の人々は他所から訪れる人に優しかったそう。

一方、日本を訪れた宣教師の記録によると、ザビエルは種子島には訪れたことがあるそうで、具体的な時期は不明なものの、ある意味、日本で「キリスト教を初めて布教が始まった場所の一つ」でもあるかもしれませんね。

ザビエルの頭はどうなってるの?教科書でもおなじみ

画像素材:Wikimedia Commons

フランシスコ・ザビエルの肖像画を見たことがある人は、多くが「ザビエルは頭頂部分が禿げている」という印象を持っているかもしれません。しかし、これはあくまでも「髪型」であり、カトリックの修道士特有の髪型でした。これは「トンスラ」と呼ばれるもので、キリスト教の聖職者が持つ独特の剃髪スタイル。

そして、日本で有名なザビエルの肖像画は、後世に描かれたものであり、実際のザビエルの姿を正確に写したものではありません。我々が知っているザビエルの肖像画は、17世紀に日本の潜伏キリシタンが描いた遺物(作者不明)が1919年に発見されたことから教科書ではこの肖像画がよく使われています。

フランシスコ・ザビエルにまつわる世界遺産はこちら!

ムラカ(マラッカ)/マレーシア

ムラカ(マラッカ)
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マレー半島の西海岸南部に位置する都市で、かつては15〜16世紀に栄えたイスラム王朝であったマラッカ王国の首都であった街。16世紀にポルトガル、17世紀にオランダ領となると、それぞれの政府庁舎や教会、要塞などが築かれました。

ザビエルは1545年にこの地で布教活動をしました。そして、1553年にザビエルの遺体が一時的に置かれていた場所でもあります。

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ボン・ジェズス・バシリカ(ボム・ジェズ教会)/インド

ボン・ジェズス・バシリカ(ボム・ジェズ教会)/ゴアの教会群と修道院群
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インドの西海岸に位置するゴア州は、かつてインドにおけるポルトガル領(1510〜1961年)の首府であった旧ゴアがあった場所。ここはポルトガルのアジア交易の拠点となり、街は要塞で囲まれ、キリスト教化が進んでいきました。

ここは1549年に着工し、1605年に完成したバシリカ。「ボム・ジェズ」とは「良いイエス」という意味。インドで最初に建造されたバシリカで、ポルトガル植民地における代表的なバロック様式の建造物でもあります。現在もザビエルの亡骸が聖遺物として保管されたことでも有名。

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世界遺産マニアの結論と感想

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の初期メンバーであると同時にインドで多く布教したということだけでなく、日本に初めてキリスト教を伝えました。そして、彼の来訪は文化的にも西洋と日本の架け橋となり、後にキリシタンとして日本の政治において大いに影響を与えていきます。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関してささは媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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