ナポレオンのロシア遠征(1812年ロシア戦役)とは?世界遺産マニアが解説

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ロシア遠征は、1812年に当時のフランス皇帝であったナポレオン・ボナパルト(1769〜1821年)がロシア帝国を侵攻した大規模な軍事作戦。しかし、この遠征はナポレオン最大の敗北となり、その後のナポレオン失脚のきっかけとなりました。

今回はナポレオンのロシア遠征を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ロシア遠征について具体的に理解できること間違いなし!

目次

ロシア遠征の目的

ナポレオンの彫像
画像素材:shutterstock

1807年にフランス皇帝ナポレオンとロシア皇帝のアレクサンドル1世は「ティルジット条約」を結び、一時的に同盟を結びました。しかし、ロシアはナポレオンの 「大陸封鎖令(イギリスとの貿易を禁止する政策)」 に不満を持ち、次第に従わなくなっていきます。1810年にロシアがイギリスと密かに貿易を再開すると、ナポレオンはこれを裏切りとみなし、ロシアへの侵攻を決意。

ナポレオンは約69万人(フランス軍+同盟軍)からなる「大陸軍」を編成し、ロシアへ進軍します。兵士はフランス人だけでなく、プロイセン、オーストリア、ポーランドなどの兵士も動員されました。

遠征の経過

ナポレオンのロシア遠征(1812年ロシア戦役)のイメージ
画像素材:Wikimedia Commons

ロシアはナポレオンとの決戦を避け、後退するという戦略で対抗し、「焦土作戦」を採用。ナポレオン軍が進む道の食料や住居を全て焼き払ったため、フランス軍は食糧補給が困難になり、兵士たちは飢えや病気に苦しみました。

やがてモスクワの西約120kmにあるボロジノで両軍が激突。ナポレオン軍は勝利するものの、ロシア軍は壊滅せずに撤退。9月にナポレオンは遂にモスクワを占領しましたが、市民はすでに避難しており、ロシア軍は町に火を放ち、モスクワは大火災に包まれていました。ナポレオンのモスクワで補給を得る計画は失敗し、大陸軍は食料不足に陥ってしまいます。そして、アレクサンドル1世は降伏せず、交渉を拒否。

撤退とナポレオンの敗北

ナポレオンのロシア遠征(1812年ロシア戦役)のイメージ
画像素材:Wikimedia Commons

10月19日にナポレオンは撤退を開始。ロシアの冬とコサック騎兵の奇襲により、大陸軍は苦しめられます。 さらにロシア軍の猛攻を受け、フランス軍の損害はさらに拡大。兵士たちは飢え、次々と命を落としていきます。最終的には69万人いた大陸軍は、わずか5000人程度しか生還できませんでした。

ナポレオンは無事帰還するも、権威は大きく低下。これを好機と見たヨーロッパ諸国がナポレオンに反旗を翻し、1813年にライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍は決定的敗北。さらに1814年にナポレオンは退位し、エルバ島へ流刑されてしまいます。

世界遺産マニアの結論と感想

ナポレオンは69万人の大軍を率いて侵攻したものの、ロシア軍は「焦土作戦」でフランス軍の補給を断ち、大陸軍を崩壊させ、ナポレオンの第一帝政崩壊の引き金となり、1814年の退位へと繋がっていきます。

ナポレオンにとってロシア遠征は「最も大きな誤算」であり、さらには死者の数も膨大で餓死者なども多かったことから、歴史上でも「悲惨」とされる軍事遠征の一つとして語り継がれています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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