ナポレオンはなぜ島流しとなった?流刑地と最後の言葉を踏まえて世界遺産マニアが解説

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ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821年)はフランスの第一帝政時代に皇帝へと上り詰めた人物。しかし、連合国との戦争により、首都・パリが陥落すると無条件に退位させられ、地中海のエルバ島へと追放されるもまた復帰。そして、イギリスとプロイセンの連合軍に負けると、今度は南太平洋のセントヘレナ島へと幽閉されてしまいます。

今回はナポレオンが島流しになった理由を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、流刑地と最後の言葉について具体的に理解できること間違いなし!

目次

ナポレオンは2度も島流しになっている!

セントヘレナのナポレオンのイメージ
画像素材:shutterstock

ナポレオンはフランス革命後の混乱の中で皇帝にまで上り詰めた天才軍人ですが、諸外国と戦争を繰り返した結果、ヨーロッパ中に敵を増やしてしまいました。ロシア遠征(1812年)が失敗すると、1814年にはパリが陥落。彼は退位となり、イタリア近くの地中海に浮かぶ小さな島・エルバ島へと追放されてしまいます。しかし、後継のルイ18世の政権は人気がなかったため、1815年にナポレオンはわずか1000人の兵士と共にエルバ島を脱出。

ナポレオンがフランスに戻ると軍を再編成し、連合国に講和を提案するも拒否され、結局イギリスとプロイセンの連合軍との戦争(ワーテルローの戦い)で敗北。彼は再び退位となり、イギリス政府に投降したため、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナ島(イギリス領)へと流刑となってしまいます。

流刑地であるセントヘレナの暮らしは?

ロングウッド・ハウス/セントヘレナ島
画像素材:shutterstock

こうして始まったセントヘレナ島での生活は退屈だったとされています。彼は少数の軍人と従者とともに島の中央部にあるロングウッド・ハウスで暮らしました。ここは常に見張りがいるほどに監視が厳しく、できることといえば、回顧録を書くことだけ。そして、島の総督はナポレオンを「将軍(退位したものの、元皇帝であるのに)」と呼んで、腐ったブドウ酒を飲ませたりと、かなりの嫌がらせを受けてしまい、ナポレオンは日記で彼を呪ってしまったほど。

ちなみに、ロングウッド・ハウスは1821年に彼が亡くなるまでに暮らし、死後はフランス政府に寄贈され、現在は博物館となっています。

ナポレオンの最後の言葉は?

ナポレオンの死去のイメージ
画像素材:shutterstock

心労も重なってナポレオンは病気となり、最終的には「胃がん(他の説も多々あり)」となってしまいます。そして、1821年5月5日に死去。彼の最期の言葉は「フランス…軍隊…ジョゼフィーヌ…」でした。

最期は彼が生涯をかけて築き上げた祖国フランス、軍人としての誇り、そして、1810年に離婚したものの、最愛の妻であったジョゼフィーヌを語ったということを考えると、彼の最期の言葉は「祖国、戦争、愛」…という解釈もでき、ナポレオンの人生を一言で凝縮しているとも考えられますね。

世界遺産マニアの結論と感想

ナポレオンは皇帝としてフランス帝国の頂点にたどり着くも、最終的には2回も島に追放され、2回目のセントヘレナ島は脱出できず、孤独の中、亡くなってしまっています。まさに波乱万丈の人生でしたね。

ちなみに、そんな彼ですら脱出できなかったセントヘレナ島は世界遺産候補であり、今でも島固有の陸鳥や植物などが暮らす、動植物の楽園が広がっています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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