ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、1808〜1873年)は、フランス第二共和政の大統領であり、第二帝政の皇帝を務めた人物です。彼はナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の甥にあたり、彼の治世はフランスの近代化と経済発展を促進しました。そんなルイ・ナポレオンとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はルイ・ナポレオンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ルイ・ナポレオンについて具体的に理解できること間違いなし!
ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)とはどんな人物?
ナポレオン1世の甥として誕生

ルイ・ナポレオンは、1808年にナポレオン1世の弟であるルイ・ボナパルト(オランダ王)と、ナポレオンの妻のジョセフィーヌの娘である、オルタンス・ド・ボアルネの間に生まれました。1815年のナポレオン1世の失脚後、ボナパルト家はフランスを追放され、ルイ・ナポレオンは幼少期をスイス、ドイツ、イタリアなどで過ごします。
青年期にはイタリアのカルボナリ(秘密結社)の運動に関与し、革命思想に陶酔していきます。1836年と1840年にフランスでクーデターを試みましたが、いずれも失敗に終わり、1840年にパリ北方のアム要塞に投獄されました。しかし、1846年に巧妙な脱獄を遂げ、イギリスに亡命。
フランス第二共和政の大統領から「ナポレオン3世」として即位



1848年にフランスで二月革命が勃発し、王政が崩壊して第二共和政が樹立されると、ルイ・ナポレオンは亡命先のイギリスから帰国し、大統領選挙に立候補。フランス初の民選大統領に就任したものの、再選が禁じられていました。そのため、ルイ・ナポレオンは1851年にクーデターを起こし、このクーデターを国民投票で承認させ、翌1852年には皇帝として即位し、「ナポレオン3世」となりました。こうしてフランス第二帝政が開始。
彼は銀行制度を改革し、商業・貿易を活性化。パリの改造計画を実施し、衛生環境の改善と大通りの整備を行いました。クリミア戦争(1853〜1856年)では、オスマン帝国を支援しつつ、ロシアに対抗し、フランスの国際的地位を高めることに成功。さらにイタリア統一戦争(1859年)ではサルデーニャ王国を支援し、オーストリアと戦い、サヴォワとニースを獲得しました。
普仏戦争と死



プロイセンとの戦争(1870〜1871年)では、プロイセンの宰相ビスマルクの策略により、フランスは戦争に突入しました。しかし、フランス軍は近代化が不十分で、プロイセン軍に大敗し、セダンの戦いでナポレオン3世は捕虜となりました。フランス国内では帝政が崩壊し、1870年に第三共和政が成立。ナポレオン3世は捕虜としてドイツに連行された後、釈放されてイギリスに亡命することになります。
ナポレオン3世はイギリスのチズルハーストで余生を送るも、健康状態は悪化し、1873年に亡くなりました。彼の死後、フランスでは共和政が定着し、ボナパルティズム(ナポレオン家の支持運動)は衰退していきました。
ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)にまつわる世界遺産はこちら!
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ/ドイツ



ドイツ中央部にあるカッセルは、かつてはヘッセン地方の中心都市でした。ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエというのは、「山の公園ヴィルヘルムスヘーエ」という意味で、庭園は17世紀にヘッセン=カッセル方伯カールによってバロック様式の公園として建造されたもの。
18世紀になると、カール伯爵の曾孫であるヴィルヘルム選帝侯によってヴィルヘルムスヘーエ城が築かれ、ここは普仏戦争に敗北した後、ナポレオン3世が幽閉されていた場所でもあります。
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世界遺産マニアの結論と感想
ルイ・ナポレオンは、フランスの経済発展や近代化に貢献した一方で、独裁的な政治手法や戦争の失敗により、最終的には帝政を崩壊させた人物でもあります。彼の評価は当時から政治家や思想家からも無能と扱われ、無口で話し下手だったからか、叔父のナポレオン1世のように愛されることはなかった様子。とはいえ、現在のパリの形を作ったのは彼であり、その影響はフランス各地で見られます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。