フランスの世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿、大司教座の建造物群、およびアヴィニョン橋」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(4)
登録年1995年

フランス南東部にあるアヴィニョンは、14世紀に一時的に教皇庁が置かれていた場所。歴史地区には、教皇宮殿、プチ・パレ、ノートルダム・デ・ドン大聖堂、12世紀にかけられたサン・ベネゼ橋など、14世紀当時のヨーロッパの中心地であった名残が見られます。

ここではアヴィニョン歴史地区:教皇宮殿、大司教座の建造物群、およびアヴィニョン橋がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アヴィニョン歴史地区について詳しくなること間違いなし!

目次

アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿、大司教座の建造物群、およびアヴィニョン橋とは?

アヴィニョン歴史地区
画像素材:shutterstock

フランスの南東部に位置するアヴィニョンは、ヴォクリューズ県の県庁所在地。歴史地区はローヌ川の右岸に広がっていて、ここは世界史でもおなじみ「アヴィニョン捕囚(1309〜1377年)」時代に教皇庁が置かれた場所で、カトリック世界の中心でもあった場所。

アヴィニョン捕囚とは、14世紀前半にフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立したことから、教皇ボニファティウス8世の死後、新しく教皇になったクレメンス5世に圧力をかけ、アヴィニョンに教皇庁を移動させていた時期を示すものも。これにより、アヴィニョンには多くの貴族や芸術家が集まり、文化都市となったのです。

登録されている主な構成資産

教皇宮殿

教皇宮殿/アヴィニョン歴史地区
画像素材:shutterstock

1335年から30年ほどかけて建造された広大な宮殿で、旧宮殿(パレ・ヴィュー)と新宮殿(パレ・ヌフ)で構成。14世紀に築かれたゴシック建築でも壮大なもので、歴史地区でも広大な面積を占めています。ベネディクトゥス12世の治世に建てられた旧宮殿は広く、中世に築かれた塔でもかなりの高さを誇るトルイヤ塔(高さ52m)も併設。新宮殿はクレメンス6世によって建てられたもので、長さ52mもある大礼拝堂が最も有名です。

1377年以降は教皇はローマに帰還したものの、ここは教皇庁によって管理を続けました。しかし、その後は破壊された上に獄舎にも利用され、調度品はほとんどなく、現在は博物館として建物だけが航海されています。

プチ・パレ

プチ・パレ/アヴィニョン歴史地区
画像素材:shutterstock

プチ・パレとは小宮殿という意味。14世紀に建造された司教館で、現在は美術館となっています。当時築かれた彫刻やフレスコ画などが見られ、ルネサンスやアヴィニヨン派の絵画などが展示。

ノートルダム・デ・ドン大聖堂

ノートルダム・デ・ドン大聖堂/アヴィニョン歴史地区
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12世紀にロマネスク様式で建造されたものの、14〜17世紀にはゴシック様式の礼拝堂が加えられ、17世紀には一部再建された大聖堂。内部には、アヴィニョン捕囚時代の教皇ヨハネス22世の墓もあります。

サン・ベネゼ橋

サン・ベネゼ橋/アヴィニョン歴史地区
画像素材:shutterstock

ローヌ川にかけられた「アヴィニョン橋」とも呼ばれる橋。ここは12世紀に建造されたアーチ橋で、当時は22ものアーチがありました。13世紀にほとんどが破壊され、再建したものの、17世紀に洪水でほとんどのアーチが崩壊。現在は4つのアーチとフィリップ端麗王塔のみ残存するという中途半端な形となり、老朽化で崩壊しそうではありますがギリギリ現存しています。

アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿、大司教座の建造物群、およびアヴィニョン橋はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

アヴィニョン歴史地区
画像素材:shutterstock

アヴィニョンが評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
歴史地区には、キリスト教施設、役所、軍事施設などが並ぶ中世都市としての優れた例であるということ。

登録基準(ii)
アヴィニョン捕囚により、14〜15世紀にかけてヨーロッパ各地から人が訪れることで、芸術と建築様式の交流が行われたという点。

登録基準(iv)
アヴィニョンの歴史地区は、ローマ教皇の歴史に関する建築物が多く並ぶということ。

世界遺産マニアの結論と感想

アヴィニョンの歴史地区は、アヴィニョン捕囚によって美術や建築様式が発達し、城壁に囲まれた中世都市として優れた例となったという点で評価。そして、ここはローマ教皇の歴史においても重要な地であるというのもポイント。

『アヴィニョンの橋の上で』という有名なフランスの歌がありますが、現在のアヴィニョン橋は狭くて、歌詞のように輪になって踊るのは困難。よって、実際は橋の下の島で踊っていたとか。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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