登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(4) |
登録年 | 1994年 |
清水寺は「古都京都の文化財」の構成資産の一つ。「清水の舞台」でも知られ、誰もが知る京都の代表的な観光地でもあります。ところで、清水寺はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは清水寺がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、清水寺について詳しくなること間違いなし!
清水寺の場所はどこ?正しい読み方は?
清水寺は、東山区にある法相宗の大本山であり、京都を代表する観光地でもあります。東山の西麓には大規模な寺社が並びますが、その中でも最も有名な寺院で、修学旅行で多くの学生が訪れる場所といえばここですよね。山号が音羽山であることから、正式には「音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)」。
読み方は音読みではなく、訓読みで清水寺(きよみずでら)。これに関しては具体的な資料はなく、9世紀ころまでは「北観音寺(きたかんのんじ)」と呼ばれていましたが、これは境内にある「音羽の滝」の水の清らしさから、いつしか「きよみずでら」となり、「きよみずさん」と訓読みが定着したそう。
清水寺とは?その歴史をわかりやすく解説
清水寺はいつ建造された?その理由は?
もともとは奈良の興福寺の僧であった延鎮(えんちん)がこの地で観音の化身と出会い、778年に寺を建設したことから、この年が創建とされています。780年に後の征夷大将軍である坂上田村麻呂(758〜811年)が本堂を寄進。やがて810年には嵯峨天皇(786〜842年)により、天皇公認の寺院となりました。
本堂は何度も消失し、現存するものは1633年に徳川家光の寄進により完成したもの。ここは「清水の舞台」として有名な「懸造り(かけづくり)」で有名で、「舞台」と呼ばれる、ケヤキの柱によってせりだした部分を支えています。
清水寺の宗派は?何の神様を祀っている?
興福寺の僧が建立したこともあり、平安時代以降は法相宗の興福寺が管理していて、中期になると真言宗も兼宗。しかし、明治になると真言宗醍醐派に改めた後、1885年に法相宗へと戻りました。興福寺の住職であり、法相宗管長の大西良慶(1875〜1983年)が貫主(住職)になると、1965年に法相宗から独立して「北法相宗」を開宗。現在の清水寺は北法相宗の大本山となっています。
本堂は、中央の厨子にある「十一面千手観世音菩薩寺」。しかし、秘仏(ひぶつ)であるために通常は非公開となっています。古くから「清水の観音さん」と呼ばれていて、親しまれているもの。現在の本堂にあるのは、御前立(おまえだち)と呼ばれるレプリカとなっています。
世界遺産にいつ登録された?
清水寺の本堂は国宝にも登録されていましたが、1994年にはその歴史的価値がユネスコに認められ、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録。現在は世界中の人が訪れ、日本でも知名度の高い遺産の一つです。
清水寺を建てた人物・延鎮と坂上田村麻呂とは?
延鎮はもともと賢心(けんしん)という名の僧で、興福寺で修行した後、夢のお告げで音羽山の滝に導かれ、滝のほとりで老仙人と出会い、霊木を受け取ったことがきっかけで、彼は霊木で観音像を作り、滝の近くにお堂を建てたと伝わっています。
正しくいえば、清水寺の開基は延鎮ではあるものの、寺院としては「平安京の守護神」とも呼ばれ、征夷大将軍を2度も務めた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって十一面千手観世音菩薩を御本尊とした本堂が建立されました。田村麻呂は妻の病気平癒のために鹿狩りをしているところを、延鎮に説かれたことがきっかけで寺院を寄進し、後に東国の遠征に向かう際に参拝し、勝利したことから本堂を大規模に改築しました。しかし、当時の遺構は現在は残っていません。
本堂(国宝)は「清水寺の舞台」として有名
舞台の高さはどれくらい?その特徴は?
本堂そのものは、創建当時から存在していたとされていますが、現在の本堂は1633年に徳川家光の寄進により再建されたもの。建物の前部分は崖からせり出すようにして造られていて、「舞台」と呼ばれる、ケヤキの柱によって上部を支えています。これは「懸造り」と呼ばれ、「継ぎ手」という技法で木材を接合しているため、釘は一つも造られていないというのが特徴。舞台の高さは約13mで、4階建てのビルと同程度の高さを誇ります。
本堂の屋根は美しい曲線を描く「寄棟造り(よせむねづくり)」となっていて、内部は丸柱によって、外陣と内陣、内々陣の3つの空間に分かれ、奥には御本尊が置かれています。通常、参拝客が訪れることができるのは外陣のみ。
実際に舞台から飛び降りた人物はいる?
懸造りは「清水の舞台」として有名で、江戸時代には飛び降りた人がいたものの、これは自殺というよりも「命をあずけて飛び降りると願いが叶う」という信仰心によるもの。実際に1694〜1864年に飛び降りた人数を調査したところ、飛び降りの件数は235件で死亡者は34人でした。結果的に死亡した人のほうが少ないというほど。1872年には京都府によって飛び降りは禁止されました。
音羽の滝(瀧)
奥の院の崖の下に位置する3筋の清流。延鎮が滝のほとりで老仙人と出会ったと伝わる場所であり、寺名の由来となった場所でもあります。現在も清らかな水が流れていて、古来より「金色水」や「延命水」と呼ばれていました。奥の院は、本堂と同様に1633年に再建されたもので、ここにも懸造りの舞台があります。
仁王門(重要文化財)
最も南に位置する清水寺の正門。朱塗りの門のため、赤門とも呼ばれています。1469年に焼失しましたが、現在の門は1500年前後に再建されたため、非常に古いもの。正面約10m、側面約5m、棟高約14mと大規模な門で、左右に鎌倉時代末期に建造された金剛力士(仁王)像があることから、仁王門と呼ばれています。
三重塔(重要文化財)
仁王門の近くに築かれた三重塔は、国内でも最大規模でその高さは約30m。清水寺のシンボル的存在で、創建は847年ではあるものの、現在の塔は1632年に再建されたもの。内部には、大日如来像を中心とした密教の曼荼羅世界が表現されています。天井や柱などには、密教仏画も描かれているのが特徴。
地主神社は縁結びの神社?
本堂の北に位置する地主神社は、もともとは清水寺の鎮守社で寺の敷地内にあったものですが、明治時代の新仏分離によって独立。創建は明らかになっていませんが、平安時代には既に祭りで賑わうほどに繁栄していたとされています。ここは1633年に再建された神社ではあるもの、清水寺の範囲として世界遺産に含まれています。主祭神は大国主で、現在は縁結びの神社として有名。
清水寺はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
清水寺が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
京都は8〜17世紀にかけて、宗教と世俗的な建築様式や庭園設計が発展した場所であり、日本伝統文化の形成に貢献してきました。そして、庭園設計は19世紀以降、世界中に大きな影響を与えたという点。
登録基準(iv)
京都の文化財に見られる建築と庭園設計は、日本の前近代の文化における最高の表現であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
清水寺は、平安時代には既に霊場として信仰を集めていました。「清水の舞台」は日本各地に残る懸造りの代表的な存在で、傑作でもあるという点で評価されています。
ちなみに、麓から清水寺へと続く坂道は「清水道」と呼ばれ、京都を代表するお土産ストリートになっていますが、歴史はそれほど古くはなく、実は近世以降に栄えた道。中世は現在の産寧坂(さんねいざか、三年坂)のほうがメインストリートで、転ぶと三年以内に死ぬという恐ろしい伝承があります。よって、昔の人はひょうたんを携帯して、転んだ時に魂がひょうたんに吸い取られるようにしたとか。実は平安時代には周囲には墓場があり、ちょっぴり怪談と結びついているのかもしれませんね…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。