京都府・滋賀県の世界文化遺産「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」とは?その歴史を含めて世界遺産マニアが簡単に解説

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登録区分文化遺産
登録基準(2),(4)
登録年1994年

794年に平安京に遷都してから、長らく日本の中心であった京都。現在も各地に神社や寺院、庭園などが多く残り、世界でも評価されています。ところで、古都京都の文化財はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!

ここでは、今回は古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、古都京都の文化財について詳しくなること間違いなし!

目次

世界遺産・古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)とは?その歴史を簡単に解説!

賀茂御祖神社(下鴨神社)/古都京都の文化財
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京都は、794年に平安京が築かれると、1000年以上に渡って日本の首都として文化の中心でもあった場所。「古都京都の文化財」は京都府京都市と宇治市、滋賀県の大津市にまたがって、17もの遺産から構成されています。合計で198の建造物と12の庭園によって構成され、これらは10〜17世紀に建造されたもの。

多くは国宝や重要文化財が含まれ、寺院を含む木造建築や日本・世界中に影響を与えた庭園様式が発展してきました。

平安時代

教王護国寺(東寺)/古都京都の文化財
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794年に桓武天皇が当時の都であった長岡京(現・長岡京市)からこの地へと遷都したことが平安時代の始まりです。京都は南に開け、東、北、西は緑豊かな緑の山に囲まれた盆地であったことから中国の風水に適う地でもあり、唐の都城をベースに築かれました。当時は貴族が政権を握っていたこともあり、ここでは400年に渡って「国風文化」と呼ばれる貴族の文化が花開きます。

平安京の内部は寺院の建築が禁じられたため、正門である羅生門の近くにあった東西の官寺(みやでら、神社と寺院の意味)以外は宗教施設は建設されず、現在の教王護国寺が「東寺」と呼ばれるのはこの名残。そういった背景もあり、寺院や貴族の別荘などは郊外に作られました。

平等院/古都京都の文化財
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当時の平安京から北に位置する、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、国家鎮護を祈る場として建設。さらに平安京から北東の位置は「鬼門」と呼ばれ、鬼の出入口とされていたために、ここに築かれたのが現在の「延暦寺」です。

平安時代末期になると、武士が台頭してきたこともあり、戦乱も多くなったことから、阿弥陀仏の救いによって浄土へ行けるという「浄土信仰(浄土教)」が広く流行。そういった背景もあり、平安京の南部に位置する宇治では、浄土思想が見られる「平等院」、その鎮守社の「氏神神社」が建設されています。

鎌倉時代

高山寺/古都京都の文化財
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12世紀後半に鎌倉に政権が誕生(現在は1183年、1185年、1192年と解釈が異なります)。鎌倉時代になっても京都の貴族の権威はそのまま残り、武家や貴族、仏教の文化は発展し、柱を水平に繋ぐ長押(なげし)を使用したりする「和様建築」も見られるようになります。

当時の代表的な建造物「高山寺」が世界遺産に登録。しかし、その後の戦乱により、京都には鎌倉時代の建築物はほとんど残っていません。

室町時代

慈照寺(銀閣寺)/古都京都の文化財
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1338年に京都で室町幕府が開かれると、経済が発展していき、公家文化を取り入れた武家によって独自の文化が発展してました。市内から北では、3代の足利義満の山荘(後の金閣寺)など、禅宗を通して中国文化をあわせた「北山文化」が繁栄。15世紀になると、市内から東側には8代の足利義政の山荘(後の銀閣寺)が築かれ、北山文化をさらに洗練させた「東山文化」へと繋がっていきました。

しかし、1467年の応仁の乱によって京都は荒廃し、当時の建造物はほとんどが失われてしまいました。その後「街衆」と呼ばれる裕福な市民が主体となり、建造物は時の権力者である織田信長と豊臣秀吉によって再建され、保護されていきます。

安土桃山時代〜江戸時代

二条城/古都京都の文化財
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豊臣秀吉が天下を統一すると、京都は御土居(おどい、環状の土塁)によって、洛中と洛外という京都の内側と外側が分けられ、豪華絢爛な桃山文化が栄えます。この時代に再建されたものの中には、秀吉が整備した「醍醐寺」もあり、今でも桜の名所として有名。1591年には、大阪にあった浄土真宗本願寺派の本山が京都に移され、ここは「西本願寺」と呼ばれるようになりました。

1600年の関ヶ原の戦い以降、徳川家康が征夷大将軍に任官されると、政治の中枢は江戸に移ったものの、幕府の京都御所の保護と宿泊所として「二条城」が建造。そして、現在の「清水寺」や「仁和寺」は江戸時代になると再建されていきます。

明治地代〜現代

1867年の大政奉還によて、幕府から朝廷へと統治権が返上されるものの、「東京奠都(てんと)」によって東京に天皇が入ったため、政府機能は引き続き東京となります。その頃から京都の社寺は保護されるようになり、1897年には古社寺保存法、1929年には国宝保存法、1950年以降は文化財保護法によって現在も維持されています。

古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

鹿苑寺(金閣寺)/古都京都の文化財
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古都京都の文化財が評価されたのは?以下の点。

登録基準(ii)
京都は8〜17世紀にかけて、宗教と世俗的な建築様式や庭園設計が発展した場所であり、日本伝統文化の形成に貢献してきました。そして、庭園設計は19世紀以降、世界中に大きな影響を与えたという点。

登録基準(iv)
京都の文化財に見られる建築と庭園設計は、日本の前近代の文化における最高の表現であるということ。

の2つ。つまり、

「京都は途中で首都機能が移ったことがあるものの、8〜17世紀にかけて、その時代の最高傑作でもある建築物や庭園が築かれていき、それらは日本の伝統文化の形成へと繋がり、特に日本庭園は19世紀以降、世界の庭園様式に影響を与えた」

ということですね。

清水寺/古都京都の文化財
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登録されているのは、以下の17の構成資産。二条城以外は、寺院と神社という宗教的建造物であるというのが特徴です。

・賀茂別雷神社(上賀茂神社)
・賀茂御祖神社(下鴨神社)
・教王護国寺(東寺)
・清水寺
・延暦寺
・醍醐寺
・仁和寺
・平等院
・宇治上神社
・高山寺
・西芳寺(苔寺)
・天龍寺
・鹿苑寺(金閣寺)
・慈照寺(銀閣寺)
・龍安寺
・本願寺(西本願寺)
・二条城

それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。

古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)の構成遺産をご紹介

1、賀茂別雷神社(上賀茂神社)

賀茂別雷神社(上賀茂神社)/古都京都の文化財
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平安京の北側に位置する京都でも最古の歴史を誇る神社。初代天皇・神武天皇の御代に神社の背後にある標高301.5mの神山(こうやま)の麓に、賀茂別雷命(かもわけいかづちのおおかみ)が降臨したというで説が残り、677年に社殿が建立されたと伝わっています。

平安京へ遷都した後は、国家鎮護の神社として繁栄。斎院(さいいん)と呼ばれる、皇女が奉任したことでも知られます。賀茂別雷命が主祭神であり、本堂と権現(ごんげん、本殿修復や造営している間に御神体を還す場所)は19世紀に再建されたものですが、国宝として登録。

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2、賀茂御祖神社(下鴨神社)

賀茂御祖神社(下鴨神社)/古都京都の文化財
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左京区にある神社で、その発祥は明確ではありませんが、賀茂別雷神社とともに京都でも最古の部類に入ります。8世紀に、賀茂別雷神社から分置したという説もあり、賀茂別雷命の母である玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、祖父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が主祭神。

東西の本殿は流造(ながれつくり)は屋根が反って曲線状に伸びていくという形式で、全国の神社の中でも代表的な存在として国宝に登録。境内にある原生林・糺の森(ただすのもり)は戦乱の中でも生き延びた貴重な森です。

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3、教王護国寺(東寺)

教王護国寺(東寺)/古都京都の文化財
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南区にある真言宗の総本山。世界遺産としては、宗教法人としての名である「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」が採用されているものの、平安京を鎮護するための宮寺として796年に羅生門の東西に建立されたため、創建当時は「東寺」と呼ばれ、現在では2つが名称を使用されています。

寺のシンボルである五重塔は、空海によって創建されたとされますが、実際は9世紀末とされています。何度も消失していて、現在の塔は1644年に徳川家光の寄進によって再建され、5代目でもあります。

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4、清水寺

清水寺/古都京都の文化財
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東山区にある法相宗の大本山であり、京都を代表する観光地でもあります。もともとは奈良の興福寺の僧であった延鎮(えんちん)がこの地で観音の化身と出会い、778年に寺を建設したことから、この年が創建とされています。780年に後に征夷大将軍となる坂上田村麻呂(758〜811年)に自邸を本堂として寄進して、810年には天皇公認の寺院となりました。

本堂は何度も消失し、現存するものは1633年に徳川家光の寄進により完成。ここは「清水の舞台」として有名な「懸造(かけづくり)」で有名で、「舞台」と呼ばれる、ケヤキの柱によってせりだした部分を支えています、江戸時代には飛び降りた人がいたものの、これは自殺というよりも「命をあずけて飛び降りると願いが叶う」信仰心によるもの。実際に死亡した人のほうが少ないというほど。

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5、延暦寺

延暦寺/古都京都の文化財
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比叡山(標高848m)は、滋賀県の大津市と京都府の京都市との県境に位置しています。ここは古くから山岳信仰が盛んな地で、山の東側にある延暦寺は、天台宗の開祖・最澄(767〜822年)が開いた寺院がもとになっていて、現在も天台宗の本山となっています。最澄の死後「延暦寺」という寺号が許され、ここは京都の鬼門(北東の方角)を護る国家鎮護の道場となりました。

日本独自の仏教の開祖など、数多くの僧が学んだことでも有名で、日本の仏教における聖地でもあります。根本中堂は、最澄によって788年に建立した小規模な寺院が前身で、現在の延暦寺の総本堂。ここは1642年に徳川家光によって再建され、最澄が作ったとされる本尊薬師如来像が安置されており、内陣は最澄の時代から続く「不滅の法灯」があることでも知られます。

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6、醍醐寺

醍醐寺/古都京都の文化財
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伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。ここは空海の孫弟子にあたる聖宝(しょうぼう)によって、874年に開山しました。山頂付近は「上醍醐」と呼ばれ、修験者の霊場として発展し、904年から山の麓にある平地には大伽藍である「下醍醐」が整備されていきます。しかし、応仁の乱によって下醍醐は荒廃。

安土桃山時代に豊臣秀吉によって花見を行うために、下醍醐の三宝院などを中心に伽藍が再建され、1598年に醍醐の花見が開催されました。他にも、平安時代後期の951年に完成した五重塔は、何度も修復を行うものの、建設当時から現存するという貴重な建造物。

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7、仁和寺

仁和寺/古都京都の文化財

右京区にある真言宗御室派の総本山。宇多天皇(867〜931年)によって888年に完成した寺院。出家した宇多天皇は法皇として、僧坊を築いて暮らしました。そのため、ここは皇室とのゆかりが深い門跡寺院で、明治時代まで皇族が門跡を継いでいたというほど。

金堂はかつて京都御所にあった内裏の正殿・紫宸殿(ししんでん)を17世紀に移築したもので、現存する最古の紫宸殿として有名。本尊である阿弥陀如来は創建当時から存在していたとされ、応仁の乱の時も被害に遭わずに残されています。

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8、平等院(平等院鳳凰堂)

平等院/古都京都の文化財
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宇治市にある寺院で、平安時代の宇治は貴族の別荘が多く、もともとは藤原道長の別荘であった宇治殿をベースに建造されたもので、息子である関白・藤原頼通が1052年に寺院に改修。当時は末法思想が強く、彼は1053年に西方極楽浄土を表現した浄土式庭園をここに造園し、そこに阿弥陀堂(後の鳳凰堂)を建立しました。

鳳凰堂は、中堂と北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟で構成されていて、阿字池の中島に浮かぶように配置されています。かつては阿弥陀堂と呼ばれていただけあって中堂には本尊・阿弥陀如来坐像が置かれていて、これは当時評価の高かった仏師の定朝(じょうちょう)による傑作。

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9、宇治上神社

宇治上神社/古都京都の文化財
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宇治市にあり、宇治川の東側にある神社。いつ創建されたかは詳しくは分かっていないものの、近くに平等院が完成すると、ここは鎮守社とされています。

国宝・本堂は平安時代後期に建造され、日本国内でも現存する最古の神社建築とされるもの。ここは檜皮葺きの屋根となっていて、内殿は左殿と中殿、右殿が置かれていて、左殿のほうが比較的古いと考えられています。寝殿造の拝殿も国宝に登録されていて、これは鎌倉時代前期から残る建造物。

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10、高山寺

高山寺/古都京都の文化財
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右京区にあり、山中に位置する寺院で、漫画のルーツ『鳥獣人物戯画」』が保管されていた場所としてあまりにも有名。8世紀に創建されたと伝わりますが、1206年に後鳥羽上皇から華厳宗(けごんしゅう)の僧・明恵(みょうえ、1173〜1232年)が後鳥羽上皇からこの地を与えられると、寺院を建造したことが実質的な高山寺の起源だと考えられています。

1219年に本堂が作られるも室町時代に消失し、現在の金堂は江戸時代に仁和寺から古堂を移築したもの。鎌倉時代から残るのは、明恵の住房であった場所と伝わる石水院のみ。もともと経蔵(きょうぞう、経典や仏教に関する書物を収蔵するも施設)であったものの、1228年に元の石水院が無くなったため、ここを整備したと考えられています。

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11、西芳寺(苔寺)

西芳寺(苔寺)/古都京都の文化財
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西京区にある西芳寺(さいほうじ)は、聖徳太子の別荘を行基(ぎょうき)が8世紀に改築してして寺院としたというのが始まりとされますが、鎌倉時代には荒廃してしまいます。1339年に作庭の名手であった夢窓疎石(むそうそせき)が訪れると、ここは臨済宗の禅宗寺院となり、寺号を「西方寺」から「西芳寺」へと変更しました。

「上段の庭」は夢窓疎石が手掛けた「枯山水庭園(水を使わず、主に石や砂で表現した山水風景)」は、日本最古の枯山水の庭園であり、日本の庭園史においては重要なもの。もともとは枯山水の庭園であったものの、江戸時代中期になると洪水によって荒廃したため、庭園は苔で覆われてしまい、現在は「苔寺」と呼ばれるようになりました。

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12、天龍寺

天龍寺/古都京都の文化財
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右京区にある臨済宗天龍寺派の総本山。もともとは13世紀に後嵯峨天皇(1220〜1272年)によって、嵐山を背景として離宮が築かれ、それを1343年に足利高氏によって改築されたもの。開基(初代住職)は作庭の名手である夢窓疎石で、参道は東西に延びていて、三門、仏殿、法堂、方丈(住職が生活する建物)が一直線に並ぶというのが特徴。

しかし、室町時代から江戸時代まで何度も火災に遭い、当時の建造物はほとんど残っておらず、建築物は近代に再建されたもの。方丈の西側にある曹源池(そうげんち)庭園のみ当時の姿をわずかに残しています。

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13、鹿苑寺(金閣寺)

鹿苑寺(金閣寺)/古都京都の文化財
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北区にある臨済宗相国寺派の寺院。1397年に室町幕府の3代将軍・足利義満が、この地に山荘を建築し、1399年には舎利殿(金閣)が完成したとされます。彼の死後、1420年に禅寺となり、彼の法号である「鹿苑院殿(ろくおんいんどの)から「鹿苑寺」と名付けられました。

金閣は3階建ての楼閣建築となっていて、二層と三層は金箔を貼られた純金の箔が貼ってあることはあまりにも有名。各階はそれぞれ建築様式が異なっていて、一層は寝殿造り、二層は武家造り、三層は中国風の禅宗仏殿造りとなっていて、北山文化を代表する建造物となっています。

しかし、1950年に放火によって炎上し、金閣はすべて焼失。頂上にあった鳳凰像と「究竟頂(くっきょうちょう、仏舎利を安置する場所)」の額だけは残されました。現在の金閣は1955年に過去の解体修理時の時に描かれた図面や写真、古文書などをもとに再建されたもの。

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14、慈照寺(銀閣寺)

慈照寺(銀閣寺)/古都京都の文化財
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左京区にある臨済宗相国寺派の寺院。1482年から室町幕府の8代将軍・足利義政が、東山に山荘を築き、隠棲生活を始めました。1490年に義政がなくなると、ここを禅寺に改めて彼の院号である「慈照院殿(じしょういんどの)」から慈照寺と名付けられました。

観音殿(銀閣)は義政によって建設。鹿苑寺の舎利殿(金閣)などをモデルにして建造された、楼閣庭園建築として有名です。金閣は金箔が貼られた建造物であるにもかかわらず、銀閣には一度も銀箔が貼られたという形跡も記録も残っていません。その理由は今でも不明。

庭園は夢窓疎石による西芳寺の庭園を模して作られたとされ、錦鏡池(きんきょうち)を中心とした池泉回遊式庭園で、白い砂を段形に盛り上げた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」、東山に登る月を待つために砂を円錐状に盛ったとされる「向月台(こうげつだい)」などが見られます。

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15、龍安寺

龍安寺/古都京都の文化財

右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。もともとは平安時代の貴族の山荘があった場所を細川勝元が引き継ぎ、1450年に禅宗寺院を建立しました。しかし、1468年に焼失し、その後、現代までに何度か焼失しています。ここは細川家の墓があるほどに、今でも細川家と縁が深い寺院。

龍安寺で最も有名なのは、方丈の庭園「石庭」。これは枯山水の庭園様式の傑作であるもの、作者は現在でも不明で、1500年頃に優れた禅僧によって作られたとされています。幅25m、奥行き10mの石庭は、15もの大小の石を配置され、水平に見えるものの、少し勾配を作ることによって排水も考慮されていて、これは「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」とも呼ばれ、さまざまなモチーフがあると考えられているものの、作者の意図は分からないまま。

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16、本願寺(西本願寺)

本願寺(西本願寺)/古都京都の文化財
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下京区にある浄土真宗本願寺派の本山。真宗大谷派の本山である「東本願寺」と区別するために西本願寺と呼ばれます。1591年に豊臣秀吉により、大坂(大阪)天満から京都の堀川へと移転。境内の南側にある唐門は、正背面が唐破風造の豪華な構造で、創建は慶長年間(1596〜1615年)以降とされるもの。

敷地の南東にある飛雲閣は国宝に登録され、滄浪池(そうろうち)と呼ばれる池に面して立つ3階建て建築物。1階は船で直接入ることができる「舟入の間」、2階は三十六歌仙の像が置かれた「歌仙の間」、3階は草案風の「摘星楼」と、変化に富んだ構造となっているのが特徴。

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17、二条城

二条城/古都京都の文化財
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中京区にある江戸時代に築かれた平城で、正式名称は「元離宮二条城」。ここは室町時代に足利将軍や織田信長によって邸宅が置かれていましたが、現存するのは徳川家康によって1601年に築城されたもの。3代将軍の家光まで京都の守護と上洛時の宿所を目的としていたものの、江戸時代中期には利用されることがなく、幕末になって再度修復されるようになりました。1867年に15代将軍の慶喜によって大政奉還が行われた場所として有名。

国宝・二の丸御殿は、狩野派によって描かれた障壁画もあり、豪華絢爛。二の丸庭園は、桃山様式の池線回遊式庭園で、池の中央には蓬莱島、その近くには亀島、鶴島があり、鶴亀を表現するという設計がされています。

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京都府の世界遺産「二条城」とは?その歴史と二の丸御殿を含めて世界遺産マニアが解説 二条城は「古都京都の文化財」の構成遺産の一つ。現在の建造物は徳川家時代のもので、豪華絢爛な二の丸御殿や天皇の離宮として利用された本丸御殿などが残されています。ところで、二条城はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない! ここでは二条城がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、二条城について詳しくなること間違なし!

世界遺産マニアの結論と感想

8〜17世紀にかけて日本の中枢であった京都は、各時代の最高傑作ともされる建築物や庭園が点在することから、日本という国の文化を形成したという点で評価されています。そして、日本庭園は19世紀以降に世界の庭園様式に影響を与えたというのもポイント。

ちなみに、まだ正式には決定はしていないのですが、京都市は構成遺産を追加することも検討していて、まだ世界遺産に登録されていない嵐山や東山、蔵馬、貴船などのエリアも候補に上がっています。禅林寺(永観堂)や知恩院といった有名なお寺も候補に上がっているので、まだまだ増える可能性もありますね!

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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