登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3) |
登録年 | 1991年 |
タイの首都バンコクから北へ約80km。アユタヤは、14世紀に築かれたアユタヤ王朝の首都だった場所。しかし、18世紀にビルマによって破壊されてしまい、現在は王宮や寺院の跡だけが残りますが、その遺構からはかつてのアユタヤ王朝の繁栄が見られます。
ここでは、古都アユタヤがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アユタヤについて詳しくなること間違いなし!
古都アユタヤとは?ワット・マハタートに残る仏像が語るその歴史は?
アユタヤは、タイ中部のアユタヤ県にある都市。現在は1万3000人ほどの小さな町ですが、14〜18世紀に繁栄したタイ人による王朝があったことで知られます。町はチャオプラヤー川、その支流のパーサック川、ロップリー川の3つが合流する中洲にあり、交易都市として栄えました。そして、北方のスコータイ王朝や現在のカンボジアを中心としたクメール王朝を滅ぼし、領土も拡大。都には外国人商人の館を含め、日本人町までありました。しかし、1767年に隣のビルマから軍隊が派遣され、町は徹底的に破壊されました。
当時の建築物はほとんど残されなかったことから、今でも壮絶な戦いがあったことが分かります。その後、アユタヤは再建されることもなく、現在では「アユタヤ歴史公園」として多くの旅行者が訪れるスポットに。
かつて世界中と交易をして栄えた都市アユタヤは、ほとんどが遺跡となっています。現在残るのは、ワット・プラシーサンペットやワット・マハータートなどの仏教関連の施設がメイン。これはアユタヤ王朝の王たちが仏教を厚く信仰しており、首都に多くの仏像やチェディ(仏塔)などを築いたということ。そこには、スコータイの建築様式やクメールの影響を受けたプラ・プラーン様式などが見られます。
現在の町の区画はアユタヤ時代のもので、計画的な都市だったということも分かります。そして、3つの川が流れるという地形を活かして水運システムも整備されていました。アユタヤの建築技術は、国が崩壊した後、下流にある現在の首都バンコクに引き継がれ、バンコクの王宮の周辺はアユタヤの都市建設プランを参考にしていたりします。
登録されている主な構成資産
ワット・プラシーサンペット
アユタヤ朝の創始者ラーマーティボーディー1世によって王宮が造られた場所とされていますが、その後、仏教施設になったと考えられています。仏塔が3つ並んでいますが、これはラーマーティボーディー2世、彼の父であるトライローカナート王、彼の兄であるボーロマラーチャーティラート3世の遺骨が納められている場所。他の遺跡に比べて漆喰などがきちんと残っているのが特徴です。
ワット・ローカヤスターラーム
もともとは15世紀後半に建造された寺院。しかし、18世紀にビルマ軍に破壊されてしまいます。現在は全長37mの涅槃仏が置かれていますが、これは1956年に復元されたもの。
ワット・マハータート
14世紀にラーマーティボーディー1世によって建造されたと伝えられている寺院。木の根で覆われた仏頭があることで知られ、トウモロコシ型のロッブリー様式の仏塔が残っています。
古都アユタヤはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
アユタヤが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
アユタヤの遺跡では、タイ独自の芸術の発展が見られるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
アユタヤはほとんどが破壊されてしまい、現在残る遺跡は復元したり、瓦解したものを元の形に修復したりと、これという物件がきちんと残っていないのも特徴。ただ破壊された都市を発掘してみると、スコータイから現在のチャクリ王朝へと繋がる建築様式や芸術などがここで確立されたというのがポイント。
ちなみに、14世紀中頃~18世紀まで存在していた日本人町は、世界遺産には含まれていませんが、石碑だけは残っています。17世紀にこの町の頭領となった山田長政といった人物については、存在が確かではありませんが、アユタヤ王朝の王女と結婚したとか、オーストラリア大陸を発見したとか、各地で何かと伝説を残す謎の人物。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。