登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4) |
登録年 | 2011年 |
ベトナム北部に位置するタインホアの郊外にある遺跡は、かつて胡朝(1400〜1407年)の首都であり、周辺には城塞が置かれていたという都市構造が見られます。ここは風水の原理に従ったもので、14世紀後半に中国から持ち込まれた宋学(新儒学)が伝搬したことを示すもの。
ここでは胡朝の城塞がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、胡朝の城塞について詳しくなること間違いなし!
胡朝の城塞とは?
ベトナム北部にあるタインホア省ヴィンロック県は、かつてベトナム北部を短期間に支配した胡朝時代の首都だった場所。ここはソンマー川という大河の近くに位置する豊かな土地で、石灰岩の大きなブロックで建造された城塞で囲まれた都市でした。胡朝は風水の原理で都市を設計し、建築物は中央集権型の王朝を示すために豪華な装飾が施されました。特に城塞の設計などは、14世紀に後半に中国から持ち込まれた宋学(新儒学)が用いられ、この地に宋学が伝搬したことを示しています。
都市は幅が870.5m×883.5mとなっていて、東西南北に城門が残っていますが、それ以外はほぼ残されていません。胡朝は王朝の成立からわずか7年で滅びましたが、ここは16〜18世紀までベトナム中北部の政治・経済・文化の中心地であり、新しい技術や商業などが発展した都市でした。
胡朝の城塞はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
胡朝の城塞が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
胡朝の城塞は、14世紀後半から15世紀初頭にかけて中央集権のシンボルである宋学(新儒学)の影響を受け、東アジアの都市計画に、周囲の自然と合わせ、東南アジアの伝統を入れつつ、新しい建築様式を発展させたという点。
登録基準(iv)
胡朝の城塞は、14世紀後半にベトナムに中国から実用的な宋学がもたらされたことを示し、大きな石灰石のブロックの使用などはそれを証明するものでありますが、城塞の区画は中国の伝統とはまた違ったものであるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
胡朝の城塞は、中国で流行した宋学に基づいて設計されつつも、周囲の自然と東南アジアの伝統的な要素を入れつつ発展した建造物が並ぶ都市であったということを示すという点で評価されています。
ちなみに、胡朝が7年で滅んでしまったのは、この地を征服した中国王朝・明の国家としての規模が大きく、すぐに攻められてしまったということもありますが、創始者の胡季犛(こきり)が暗殺・裏切りの上に即位したたため、その人間性からも王朝として短命であったともされます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。