登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (6) |
登録年 | 2023年 |
アルゼンチンは1976〜1983年にかけて「汚い戦争」という国家テロが行われ、逮捕された国民は秘密拘留・拷問・絶滅センターにて収容・拷問された後、殺害されました。センターは各地にありましたが、首都ブエノスアイレスにある海軍機械学校(ESMA)にあったセンターは2004年から博物館となり、国家テロによる悲惨な出来事を現代に伝える場として公開されています。
ここではESMA「記憶の場」博物館-かつての拘禁、拷問、絶滅の秘密センターがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ESMA「記憶の場」博物館について詳しくなること間違いなし!
ESMA「記憶の場」博物館-かつての拘禁、拷問、絶滅の秘密センターとは?
アルゼンチンは、1976年から1983年にかけて当時の軍事政権によって行われた「汚い戦争」によって、多くの政治家や学生、ジャーナリストが逮捕・監禁・拷問され、3万もの人々が死亡もしくは行方不明になりました。当時は各地に「秘密拘留・拷問・絶滅センター(CCDTyE)」が置かれ、1976年までに610ものセンターが築かれたとされます。
その中でも最も有名な場所が、現在のESMA「記憶の場」博物館です。ここはもともと海軍機械学校(ESMA)の敷地を1946年に士官学校として利用したもので、海軍の将校が暮らす邸宅もありました。地下室と屋根裏部屋を備えた本館があり、ここでは約5000人もの人々が収容され、90%以上が殺害されたとされています。地下室や屋根裏部屋には、独房と拷問室があり、ここで眠気を誘う薬を注射され、飛行機で輸送し、生きたまま「死のフライト」として、川や海に突き落として証拠を隠滅していたというもの。
その後、フォークランド紛争(1982年)の敗北によって軍事政権は崩壊し、生存者と人権団体の活動もあり、ここは人権侵害の証拠として、政府は強制収容所であったこの場所を海軍から取り戻し、2004年から博物館として公開しています。
ESMA「記憶の場」博物館-かつての拘禁、拷問、絶滅の秘密センターはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
ESMA「記憶の場」博物館が評価されたのが、以下の点。
登録基準(vi)
独裁政権以降、アルゼンチンの長年の人権に関する戦いにより、民主主義に関して大きな発展を遂げ、基本的権利は発展しています。1984年からアルゼンチンの法医学チームが誕生し、2005年には「死のフライト」の存在の科学的証拠を出したこともあり、独裁政権時代に犯罪を犯した何百もの人々が裁判を受け、現在も起訴などが続けられています。ここはその歴史の一部分を記憶として保存する場所であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
アルゼンチンは「汚い戦争」という名の独裁政権時代に行われた国家テロを経験し、その後は明るみに出なかったものの、生存者や人権団体によって、徐々にその悲惨な出来事が明らかになっています。ESMA「記憶の場」博物館は強制収容所の中でもシンボル的な存在となっているという点で評価されています。
ちなみに、ブエノスアイレスには都市としての世界遺産がないものの、「ブエノスアイレス–ラプラタ: 近代文化、折衷主義、移民の2つの首都」として世界遺産の暫定リストに登録されていて、移民たちによる折衷した建造物と街並みを押す予定。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。