登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(3) |
登録年 | 1999年 |
メルブはトルクメニスタン東部、カラクム砂漠の南部にある中央アジア最大規模の遺跡。ここは紀元前2500年頃から存在するというオアシス都市の遺跡でも最も古く、保存状態の良いものです。12世紀には中央アジアから中東一帯を支配したセルジューク朝の中心都市ともなり、世界最西端の仏教遺跡があることでも有名。
ここでは国立歴史文化公園“古代メルフ”がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、メルブの遺跡について詳しくなること間違いなし!
国立歴史文化公園“古代メルフ”(メルブ遺跡)とは?
トルクメニスタンのカラクム砂漠の南部にあるメルブは、かつてシルクロードの要衝として栄えたオアシス都市で、保存状態が良い遺跡です。そして、遺跡にはかつての都市の区画や要塞跡などが点在。
ここには女神や動物の姿をした土偶や彩色陶器が発見され、青銅器時代(紀元前2500〜1200年頃)の都市遺跡が残るほどに古くから存在するもの。オアシス都市としては紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャの支配下に置かれた時代から繁栄。パルティア王国時代(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の城壁も残っています。
紀元前1世紀には仏教がメルブに伝来します。遺跡の南東には寺院跡と見られる遺構があり、仏塔や僧院なども残存。ここは世界でも最西端の仏教遺跡でもあります。そして、7世紀にイスラム教が伝来し、イスラム都市になりました。この頃に建造されたのは、遺跡を象徴する「キズ・カラ」で、かつての要塞跡地です。
12世紀にはセルジューク朝の中心都市となり、人口も100万人に達していました。セルジューク朝は、テュルク系遊牧民(トゥルクマーン)によって建国された国で、スルタンの称号を得て中東一帯を支配するようになると、メルブも最盛期となり、イスラム教学者が集まる文化の中心地となりました。しかし、1221年にモンゴル軍によって滅ぼされると、以降は廃墟となり、人が住むことがないまま遺跡に。
スルタン・サンジャル霊廟
セルジューク朝の第8代のアフマド・サンジャルの霊廟で、周囲はもともとはイスラム教関連の広大な施設だったと考えられていますが、現在は11世紀に建造された四角い霊廟が残るだけ。これはモンゴル軍の攻撃にも耐えるほどの堅固な建築物で、セルジューク朝時代の最も優れた建築物の一つです。
国立歴史文化公園“古代メルフ”(メルブ遺跡)はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
メルブの遺跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
メルブは中央アジアの文化に4000年以上も影響を与え続け、セルジューク朝時代は建築と科学、文化の発信地であったということ。
登録基準(iii)
メルブにはいくつかの要塞や区画が残っていて、数千年にも渡って栄えた中央アジアの文明の跡が残っているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
メルブの遺跡は、中央アジアでも最も古く、最も広大な遺跡であるとされるほどで、ここに点在する遺構は、数千年にも渡って栄えた文明を示すものであるという点で評価。そして、メルブで発達した文化は周辺都市にも影響を与え、中東一帯を支配したセルジューク朝時代は文化の中心都市であったということもポイント。
これだけ歴史の中心として活躍した都市なのに、現在あまり知名度がないのは、12世紀には100万人もの人々が住んでいたものの、モンゴル軍により一人残らず皆殺しにされたために、街は壊滅。やはり、街を活かすのも殺すのも人であるということを、この遺跡は教えてくれているのかもしれませんね…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。