登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4), (5) |
登録年 | 1988年 |
エーゲ海南部にあり、現在のトルコ共和国があるアナトリア半島のすぐそばにあるロドス島。エルサレムを拠点としていた聖ヨハネ騎士団は1309年から1523年までロドス島を占領して、要塞都市を築きました。現在の旧市街にはゴシック様式の宮殿や病院など、当時の建築物が多く残っています。
ここでは、ロドスの中世都市がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ロドスの中世都市について詳しくなること間違いなし!
ロドスの中世都市とは?ロドス島の歴史を含めて解説
ロドス島はギリシャで4番目に大きな面積を持つ島で、アジア側に位置しています。トルコ共和国のあるアナトリア半島のすぐ側にあり、20世紀初期まではオスマン帝国に支配されていました。
1309年から1523年まで、パレスチナでの拠点を失った聖ヨハネ騎士団がこの地を支配していました。そして、島の北東にある町を要塞都市へと改修。15世紀にはマムルーク朝やオスマン帝国の包囲戦でも耐え抜いたものの、1522年にはオスマン帝国のスレイマン1世による攻撃により陥落しました。
ロドスの旧市街は4kmの城壁に囲まれていて、北側は騎士団が住んでいたエリアで、南側は市民が住むエリアでした。旧市街を東西に伸びる騎士団通りの両側に建築物が並んでおり、ゴシック様式で作られたイタリア館やフランス館、スペイン館、プロヴァンス館など、各国の館が並んでいます。騎士団は別名ホスピス教団と呼ばれるほどに、病院経営に力を入れてて、最初の病院のあった場所の近くの北に、15世紀に築かれた大病院がありました。現在は考古学博物館になっています。
旧市街の南側には最大で5000人ほどの人々が暮らしていて、ビザンチン様式の教会や司教の館、病院などがありました。しかし、オスマン帝国に支配された後は、教会はほとんどがモスクに改築され、現在はモスクやハマム、オスマン帝国時代の邸宅が残っています。旧市街を囲む城壁には要塞が築かれ、この要塞の構造は中世後半の東地中海世界に大きな影響を与えたもの。
登録されている主な構成資産
騎士団長の館
建物としては7世紀の建築物ではあるものの、1309年以降は聖ヨハネ騎士団の団長の邸宅として利用されることになりました。16世紀になり、オスマン帝国に支配されるようになると、火薬庫の爆発によって崩壊。その後、1937年にイタリア統治時代に再建されたものの。現在は、モザイクや調度品が並ぶ、博物館となっています。
ロドスの中世都市はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
ロドスの中世都市が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
ロドスの要塞は、難攻不落の構造で東地中海沿岸の都市に大きな影響を与えたという点。
登録基準(iv)
ロドスはゴシック様式の建築物が集まる都市で、聖ヨハネ騎士団やオスマン帝国によって作られた建設物が今でも残っているということ。
登録基準(v)
ヨーロッパの聖ヨハネ騎士団とオスマン帝国の文化が交差した旧市街は、地中海のさまざまな文化が融合しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
ロドスの難攻不落の要塞は、エジプトのマムルーク朝やオスマン帝国の攻撃にも耐えた堅固なものでした。当時はここがキリスト教世界の東端に位置していたということもあり、町にはゴシック様式の館など、ヨーロッパ風の建築物が残りつつもオスマン帝国時代のものが残っていて、現在は地中海世界の文化が入り混じった町並みになっています。
ちなみに、ロドス島といえば、世界七不思議の一つである「ロドス島の巨像」の伝説が残る地。全長50mの巨大な人形の像だったとされ、見るものを圧倒したそう。これは紀元前4世紀に侵入者であるアンティゴノス1世から町を守ったことを記念して作ったことから、当時から島の人々は「難攻不落な何か」を作るのが得意だったんでしょうね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。