登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4), (5) |
登録年 | 1995年 |
岐阜県の白川郷、富山県の五箇山といえば、合掌造り集落で有名ですね。これらは世界文化遺産に登録されているのですが、合掌造り集落はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは、今回は白川郷・五箇山の合掌造り集落がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、合掌造り集落について詳しくなること間違いなし!
世界遺産・白川郷・五箇山の合掌造り集落とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!
岐阜県と富山県の県境の山間部に位置する3つの集落は、合掌造りと呼ばれる独自の家屋が並ぶ地。岐阜県側の荻町集落が「白川郷」と呼ばれ、富山県側の相倉集落と菅沼集落は「五箇山」と呼ばれています。ここは山がちな地形であるため、稲作に適した土地も少なく、農業するのも難しい上に豪雪地帯であり、古くから厳しい環境で人々は暮らしてきました。
人々は桑の木の栽培と養蚕、そして、火薬の原料となる塩硝(えんしょう)作りで生計を立てるために、10〜30人の大家族で暮らすための合掌造りの家屋が考案されました。これは通気性の良い屋根で蚕を飼育することができ、床の下では蚕の糞や雑草、土を混ぜて分解させて塩硝を作ることができるという便利な構造。
屋根は豪雪地帯のため、45〜60度の急傾斜になっていて雪下ろしの負担を軽減できるという構造に。そして、家屋は小屋組(おもに2階の屋根部分)と軸組(おもに1階の基礎部分)で分かれていて、ウスバリと呼ばれる床で分断されていました。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが1933〜36年に日本に滞在した際に「構造が非常に合理的で独特の存在である」と記したほど。
この地は13世紀には浄土真宗が広まり、人々は厳しい環境で暮らすため、隣人同士の組合である「結(ゆい)」という社会制度が作られました。結によって合掌造りの家屋が作られるのですが、家造りがいつの時代から始まったかは不明。17世紀後半にはその原型が見られ、18〜19世紀には大規模の家屋が作られるようになったとされています。
白川郷・五箇山の合掌造り集落はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
白川郷・五箇山の合掌造り集落が評価されたのは?以下の点。
登録基準(iv)
白川郷・五箇山の合掌造り集落は、環境に適応しながら暮らし続けてきたという優れた伝統的集落であるということ。
登録基準(v)
1950年以降、日本は経済発展によって人々の暮らしが変わりましたが、この地では長い伝統をそのまま続けていて、合掌造り集落は昔からの社会制度をそのまま維持してきたという証拠でもあるという点。
の2つ。つまり、
「厳しい環境の中でもそれに適応するために作られた合掌造り集落は、1950年代の経済発展で日本の社会構造が変わっても伝統的な暮らしが続けられているという証拠でもある」
ということですね。
実際に登録されているのは、3つの構成資産で構成されています。
・荻町集落(白川郷)
・相倉集落(五箇山)
・菅沼集落(五箇山)
それでは、ひとつひとつ解説していきましょう。
白川郷・五箇山の合掌造り集落の構成資産をご紹介
1、荻町集落(白川郷)
岐阜県の北西部に位置する集落で、庄川の右岸には59もの合掌造りの家屋が世界遺産に登録されています。そのうち31棟が江戸時代に建造されたもので、富山県側と比べると年代の古い合掌造りの家屋が多く点在。そして、家屋は屋根がある側に入り口があるという「平入り」が多いのが特徴。荻町集落の家屋でも代表的な家屋の一つ「和田家」は現在でも見学が可能です。
白川郷そのものは12世紀には存在していたことが確認ができますが、江戸時代になると高山市を中心に存在していた飛騨高山藩の領地となります。しかし、17世紀後半に天領となり、明治維新まで幕府の直轄地でもありました。
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2、相倉集落(五箇山)
富山県の南砺市に位置していて、最も北側にある合掌造り集落。ここは20棟の合掌造りの家屋が登録されていて、これらは江戸時代から明治時代にかけて建造されたもの。白川郷と同じく、段丘が多くて米作りには不向きな地で、戦国時代から江戸時代には塩硝作りが盛んで、当時この地を領地としていた加賀藩が買い付けていました。
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3、菅沼集落(五箇山)
富山県の南砺市には含まれるものの、岐阜県の県境に位置する集落で、ここの家屋も9棟が世界遺産に登録。菅沼の合掌造り家屋は、切妻側に入り口があるという「妻入り」の家屋が多いのが特徴です。
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世界遺産マニアの結論と感想
岐阜県と富山県の県境は山がちなエリアで農業には適していない地であり、冬になると雪も多く降るという厳しい環境の中でも、人々は独自の社会組織を作り上げ、合掌造りという養蚕と塩硝の製造が同時にできるという合理的な構造の家々を築いて暮らしてきたという点で評価されています。
最後に…この記事でも散々「合掌造り」と使用していますが、実はこのワードはそれほど古くなく、1930年頃に研究者が使い始めたもので、江戸時代や明治時代には存在していなかったそう。三角形の屋根が、まさに「合掌」した時の手の形と似ているというところから由来する…らしいというくらい曖昧だし、実は日本政府的には「これがあれば合掌造りである」という定義すら存在しないのです。
でも、由来はどうであれ…「合掌造り」でぴったり来るのだから、そこは無駄に気にしても仕方ないのでしょうけど。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。