登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2) |
登録年 | 1981年 |
ドイツ南西部、フランスとの国境線近くあるシュパイアーの街には、11世紀に神聖ローマ皇帝コンラート2世によって設立された大聖堂があります。ここは300年に渡ってドイツ皇帝の埋葬地であった場所で、ドイツ・ロマネスク様式の先駆け的存在。
ここではシュパイアー大聖堂がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、シュパイアー大聖堂について詳しくなること間違いなし!
シュパイアー大聖堂とは?
ドイツ南西部のラインラント=プファルツ州にある都市シュパイヤー。この街にある大聖堂は、1030年にザーリア朝の神聖ローマ皇帝コンラート2世によって建造。そして、彼の孫であるハインリヒ4世によって改築され、ヨーロッパでも最大級のロマネスク様式の大聖堂となりました。その後300年にわたってドイツ皇帝の埋葬地として利用。
大聖堂には4つの塔と2つのドームがあるという構造で、アーチ型天井のバシリカ式の聖堂となっています。身廊は荷重を4つの点で支えるようにし、それに補強を加えた交差リブ・ヴォールトが採用され、ロマネスク様式の発展が見られるもの。
17世紀になると、ルイ14世に率いられたフランス軍兵士によって燃やされてしまったため、再建されましたが、ロマネスク様式はそのまま維持されました。そして、19世紀にまたフランス軍によって破壊されるも、当時のバイエルン王ルートヴィヒ1世の出資によって修復。そして、内部にはフレスコ画が描かれ、20世紀の修復で創建当時の姿となりました。
西側のファサードの前には「大聖堂の鉢」という石造りの鉢が残ります。この街には新しい司教が選ばれるとここにワインを入れ、市民たちが司教の健康を祈って空にするという独特の風習がありました。
シュパイアー大聖堂はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
シュパイアー大聖堂が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
シュパイアー大聖堂は、11〜12世紀のロマネスク様式の発展が見られ、ヨーロッパの建造物の修復技術の発展にも大きく影響を与えたということ。
世界遺産マニアの結論と感想
シュパイアー大聖堂は、ドイツ皇帝の埋葬地として利用されたものだけあって、ドイツのロマネスク様式の発展が見られるという点で評価。そして、大聖堂は何度も破壊されているので、修復されることによってその技術が修復技術の発展につながっていったというのもポイント。
ハインリヒ4世は「カノッサの屈辱」で有名ですが、これは「叙任権」という司教などの任命権を巡って行われた、教皇と皇帝との主導権争いのようなもので、結局、皇帝が敗北したということ。そして、教皇の権力は強くなって、それが宗教改革や政教分離に繋っていったのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。