オーストリアの世界遺産「ウィーン歴史地区」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産(危機遺産 2017年~)
登録基準(2), (4), (6)
登録年2001年

オーストリアの首都ウィーンは、音楽の都としてヨーロッパの音楽史に大きな影響を与えてきました。かつてはハプスブルク帝国の首都でもあり、市内には中世に築かれたものからバロック様式、ネオ・ルネサンス様式の壮麗な建築物が今でも多く並んでいます。

ここでは、ウィーン歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ウィーンについて詳しくなること間違いなし!

目次

ウィーン歴史地区とは?

ウィーン歴史地区
画像素材:shutterstock

ウィーンは、現在のオーストリア東部のドナウ川沿いに位置する都市で、ローマ時代の都市ウィンドボナが起源。やがてハプスブルク帝国の首都になり、やがて「音楽の都」として16世紀以降は多くの音楽家を輩出しています。そして、ハプスブルク家の繁栄と同時に街は発展し、特にバロック様式の宮殿や庭園など、当時の栄華が見られる壮麗な建物が点在。

中世には交易地として栄えた集落が、王都となったのは13世紀。ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝となると、ウィーンはここからハプスブルク家によって統治されます。12世紀に聖シュテファン大聖堂が建造されましたが、13世紀からゴシック様式に改築。

ウィーン歴史地区
画像素材:shutterstock

17世紀にハプスブルク帝国の首都となり、オスマン帝国の侵攻を受けるものの、それを退けると18世紀以降、城壁がさらに外側に拡大すると街は拡大。この時期にベルヴェデーレ宮殿など、バロック様式の建造物が続々と造られていきます。この時期に音楽家のモーツァルトの邸宅が市内に建造され、「ウィーン楽派」がここから派生し、ヨーロッパの「音楽の都」へ。

19世紀後半には、フランツ・ヨーゼフ1世によって都市改造が行われ、中世の城壁が壊され、リンクシュトラーセという環状道路がウィーン中心部を囲むようになりました。環状道路沿いにはゴシック・リバイバル建築やネオ・ルネサンス様式の建造物が造られていきます。そして、ユーゲント・シュティール(アール・ヌーヴォー)がヨーロッパで流行すると、ウィーン分離派が活躍。ウィーンは、2000年以上の歴史を持ち、文化や音楽などの発展とともに、建築の発展の歴史も見られるのです。

ウィーン歴史地区
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危機遺産

ウィーン市は「ウィーン覚書」を作成し、町並みを保管しながら、ウィーン歴史地区と現代都市との融合していくことを予定していましたが、現在は高層建築物の建設が予定されており、景観が大いに損なわれることが想定されることから、2017年から危機遺産リストに登録されています。

登録されている主な構成資産

聖シュテファン大聖堂(シュテファン寺院)

聖シュテファン大聖堂(シュテファン寺院)
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ウィーンの中心部に位置するゴシック様式の大聖堂。12世紀に建造され、当初はロマネスク様式だったものの、火事によって崩壊。現在見られる聖堂は、オーストリア公ルドルフ4世によって、14〜15世紀にかけて建造されたものが基盤。南塔は136.7mもあり、キリスト教建築の塔としては世界でも3番目の高さ。外観はゴシック様式であるものの、内部の祭壇はバロック様式です。正面の入口にある門は、13世紀のロマネスク様式のものを利用。

ハプスブルク家の歴代君主の墓所となっていて、まさにウィーンを代表する大聖堂。モーツァルトの結婚式でも利用されるほど、ウィーンの歴史と密接に関わってきました。

ホーフブルク宮殿

ホーフブルク宮殿
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市内中心部に位置する宮殿。13世紀に神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公国の城に入城すると、1918年までハプスブルク家の宮殿として利用されていました。ホーフブルク王宮とも呼ばれ、シェーンブルン宮殿が夏の離宮として利用されたのに対し、こちらは冬の宮殿として使用。歴代の君主が増改築を繰り替えてきたため、宮殿内はルネサンスやバロック様式などが入り混じり、王宮、図書館、礼拝堂、乗馬学校などで構成されています。

王宮の最古の部分であるスイス宮は、現在は神聖ローマ帝国の帝冠などが飾られている王宮宝物館として利用されています。

ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿
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ハプルブルク家に仕えた軍人であり、政治家であったプリンツ・オイゲンが、18世紀前半にウィーン南部に夏の離宮として建造したもの。広大な敷地の南側にある下宮はオイゲンの居住空間で、北側にある上宮は迎賓館として利用されていました。

オイゲンの死後は、ハプスブルク家が所有していましたが、1955年からは「オーストリア・ギャラリー」として、オーストリアの画家の作品を中心とした美術館になっています。

ウィーン国立歌劇場

ウィーン国立歌劇場
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リンクシュトラーセ沿いにある劇場。フランツ・ヨーゼフ1世の時代、1869年に完成したネオ・ルネサンス様式の劇場として完成。こけら落としの演目はモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』でした。現在のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体でもあります。

ウィーン歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

ウィーン歴史地区
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ウィーンが評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
ウィーンの歴史地区は、2000年以上にも渡り、文化の交流を通じて都市の発展が見られるという点。

登録基準(iv)
ウィーンの歴史地区は、中世から19世紀までヨーロッパの文化や政治の発展が見られるということ。

登録基準(vi)
16世紀以降ウィーンは音楽の都として広く認知されているという点。

世界遺産マニアの結論と感想

ウィーンは統治者であるハプスブルク家が栄えていくと同時に、街並みや建築物も発展してきたという点で評価。それと同時に文化や音楽の中心となっていったこともポイントです。

ちなみに、ウィーンというとザッハートルテというチョコレートケーキが有名。「ホテル・ザッハー」のものと、ハプルブルク家御用達の菓子店「デメル」のものと2パターンあります。オリジナルはホテル・ザッハーのものなのですが、ホテルが経営難になると、販売権だけデメルに譲ったことにより、このような事態に。しかし、商標使用の裁判で争った結果、両方で認められ、ジャムの塗り方だけ違うザッハートルテがそれぞれ店で名物になったのです。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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